📝 この記事のポイント
- 回転寿司で、隣のレーンの皿が気になって自分の注文を忘れた。
- 正確には、隣の席で小学生くらいの男の子が流れてくるプリンを真剣な顔で見つめ、見送って、また次のプリンを待つという無限ループを眺めていたら、自分のタブレットを操作する手が止まってしまったのだ。
- 結局、妻に「あんた、次マグロでいいの? 」と声をかけられてハッと我に返った。
回転寿司で、隣のレーンの皿が気になって自分の注文を忘れた。
正確には、隣の席で小学生くらいの男の子が流れてくるプリンを真剣な顔で見つめ、見送って、また次のプリンを待つという無限ループを眺めていたら、自分のタブレットを操作する手が止まってしまったのだ。
結局、妻に「あんた、次マグロでいいの?
」と声をかけられてハッと我に返った。
こういう、どうでもいいことに集中しすぎて、肝心なことをおろそかにする癖、昔から治らない。
今日の夕食当番は僕。
マグロは外せない。
自宅に帰り、買っておいた刺身を並べ、味噌汁を温め、冷蔵庫に残っていたひじきを小皿に盛る。
共働きの我が家では、夕食は当番制だ。
正直、料理は得意じゃない。
でも、自分が作ると決めた日は、なんだか妙な使命感に燃える。
今日のメニューは、マグロ丼と、豆腐とワカメの味噌汁、そしてひじき。
ザ・和食。
レパートリーの少なさにそろそろ妻から文句が出そうだな、と思いつつ、まあ、今日くらいは許されるだろう。
食卓に並べると、それなりに見えるから不思議だ。
夕食を終え、洗い物をしていると、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう?
ドアを開けると、そこには、隣の奥さんが立っていた。
「あ、こんばんはー!
」と、いつもの明るい笑顔。
手には、うちの庭から転がり落ちたらしいサッカーボールを抱えている。
「すみません、うちの子がまた迷惑かけちゃって」と申し訳なさそうに言う。
いやいや、とんでもない。
うちの息子もよくボールを拾ってもらっているし、そもそもボールが庭の境目を越えるのは日常茶飯事だ。
「全然大丈夫ですよ!
むしろいつもありがとうございます」と僕が言うと、奥さんはホッとしたように笑った。
「そういえば、旦那さん、車買い替えるって言ってましたよね?
」「あ、はい、そろそろ車検ですし、乗り換えようかと。
でもまだ全然決まってなくて」と答える。
僕らのマンションは、駐車場が各戸一台分しかない。
だから、駐車場で他の住人と会うと、自然と車の話になることが多い。
奥さんの旦那さんも、つい先日、うちの車の隣に停めながら「新しい車、何にするか迷ってるんですよね〜」なんて世間話をしたばかりだった。
奥さんは「うちの旦那がね、最近YouTubeで面白いEVメーカー見つけたって騒いでて。
インドの会社なんですけど、名前がすごいんですよ」と、ちょっと声をひそめて言った。
「へえ、インドのEVですか。
どんな名前なんですか?
」「それがね、YAKUZA、だって言うんですよ!
YAKUZA。ヤクザ。一瞬、頭がフリーズした。え、ヤクザ?あのYAKUZA?日本の?まさか。思わず聞き返してしまった。「え、ヤクザ、ですか?」
「そうなんです! 私も耳を疑って。でも、漢字じゃなくてアルファベットでYAKUZAって書いてあって。なんか、不屈の精神とか、勤勉さとか、そういう意味を込めてるらしいんですけど……」
奥さんは、言いながらも半笑いだ。
僕も思わず吹き出してしまった。
不屈の精神と勤勉さ。
なるほど、それはわかる。
でも、よりにもよってYAKUZAか。
インドの方々には、その言葉が持つ日本での意味が、どう伝わっているんだろう。
ちょっと想像するだけで、お腹が痛くなるくらい面白い。
「いやー、それはすごいですね。ちょっと、興味ありますね」
僕がそう言うと、奥さんは「ですよね!
うちの旦那も、最初は冗談かと思ったらしいんですけど、調べたらけっこう真面目な会社みたいで。
デザインも、なんか近未来的でかっこいいって言ってましたよ」と、興奮気味に話してくれた。
その日の夜、妻にヤクザEVの話をしたら、案の定、お腹を抱えて笑っていた。
「ちょっと、それ、買うの?
うちの車、YAKUZAになるの?
」と、なぜか楽しそうだ。
「いやいや、いくら面白いからって、さすがにちょっと考えるでしょ」と言いつつ、僕も内心、ググらずにはいられない自分がいた。
スマホで「YAKUZA EV インド」と検索してみる。
おお、本当だ。
画像がいくつか出てくる。
デザインは、確かに悪くない。
むしろ、洗練されている。
流線型で、ちょっとテスラっぽい雰囲気もある。
そして、エンブレムには、デカデカと「YAKUZA」の文字。
これが日本の公道を走ったら、警察官も二度見するだろうな。
いや、職務質問されるかもしれない。
ちょっとした期待が、面白い裏切りに変わった瞬間だ。
でも、意外と悪くない。
いや、むしろ、めちゃくちゃ面白いじゃないか。
このネーミングセンス、一周回ってアリなんじゃないか。
いや、さすがにナシか。
でも、もしも街でYAKUZA EVが走っていたら、きっと僕はそのドライバーに親近感を覚えるだろう。
この車を選ぶ人は、きっと僕と同じように、ちょっと変なものに惹かれるタイプに違いない、と。
翌日、出勤途中に隣の奥さんの旦那さんと会った。「おはようございます!」と声をかけると、「あ、おはようございます! EVの件、奥さんから聞きました? YAKUZA!」と、向こうから切り出してきた。
「聞きました聞きました! いやー、びっくりしましたね! でも、デザインかっこいいですね」
「でしょ!? 僕もそう思ったんですよ。最初は冗談かと思ったんですけどね。でも、なんか、一回見ちゃうと頭から離れなくて。不屈の精神、とか言われると、なんか応援したくなっちゃって」
僕たちは、駐車場で立ち話しながら、YAKUZA EVについて熱く語り合った。
どうやら彼は、かなり真剣に購入を検討しているらしい。
「いや、さすがに奥さんには止められてるんですけどね。
『あんた、その車で子どもを保育園に送っていくの?
』って言われちゃって」と苦笑いしている。
僕も「まあ、そうですよね」と同情する。
でも、この会話、なんか楽しい。
普段は「お疲れ様です」「いい天気ですね」くらいの挨拶しか交わさないのに、YAKUZA EVのおかげで、ちょっと距離が縮まった気がした。
人間の面白さって、こういうところにあるのかもしれない。
常識からちょっと外れたものに惹かれたり、みんなが「え?
」ってなるような選択肢に、なぜか妙な魅力を感じたり。
そして、そういう「ちょっと変」を共有することで、見知らぬ人との間に、不思議な連帯感が生まれたりする。
結局、僕も隣の旦那さんも、YAKUZA EVを購入することはないだろう。
妻が乗ってくれないし、何より、日本の道でYAKUZAと書かれた車を運転する勇気は、今の僕にはない。
でも、あの回転寿司でプリンを凝視していた少年と同じくらい、僕たちはYAKUZA EVに夢中になった。
そして、そのおかげで、隣人との間に、ほんの少しだけ、温かい空気が流れた。
人生って、そういうものなんだよな。
期待していたものが裏切られて、でも、その裏切りが意外な発見につながったり、新しい出会いを生んだりする。
マグロ丼を食べようと思ってたのに、プリンに夢中になって注文を忘れちゃう。
でも、その空白の時間が、YAKUZA EVという面白い話題と、隣人との楽しい会話につながる。
結局、僕は車を買い替えることになった。
国産の、ごく普通のコンパクトカーだ。
駐車場で隣の旦那さんに会うと、「ああ、やっぱ普通の車に落ち着きましたか!
」と笑われた。
「ええ、まあ、色々とありまして」と僕も苦笑い。
でも、きっと彼の心の中にも、あのYAKUZA EVが、忘れられない「ちょっと面白い話」として刻まれているはずだ。
僕の心にも、あの不屈の精神と勤勉さを体現するブランド名が、確かに残っている。
そして、それを見るたびに、僕は隣の奥さんの笑顔と、駐車場での他愛ない会話を思い出すのだ。
それは、回転寿司で食べ損ねたマグロよりも、ずっと豊かな味わいがある。
そう、多分ね。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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