📝 この記事のポイント
- 「きれいすぎるんだよ」 大学時代の友人が、居酒屋でそうつぶやいた。
- その日観た最新のアニメ映画の話をしていたときだ。
- 「なんていうか、昔のアニメの方が、すごかった気がしない?」 ビールを一口飲んで、僕は答えた。
「きれいすぎるんだよ」
大学時代の友人が、居酒屋でそうつぶやいた。その日観た最新のアニメ映画の話をしていたときだ。作画は完璧、CGは美しい、色彩も鮮やか。批判するところなんてない。なのに、帰り道でずっとモヤモヤしていた。
「なんていうか、昔のアニメの方が、すごかった気がしない?」
ビールを一口飲んで、僕は答えた。「わかる」
エヴァンゲリオン旧劇場版を初めて観たときの衝撃。AKIRAの金田のバイクが画面を駆け抜けたときの興奮。中学生だった僕は、あの日から何かが変わった。アニメって、こんなにすごいことができるんだって。
あれから二十年以上経った。
技術は進化した。デジタル化で作業効率も上がった。修正も簡単になった。4Kだ、8Kだ、120fpsだと、スペックは上がり続けている。
なのに、なぜだろう。心に残るのは、いつも昔のアニメだ。
これは、単なるノスタルジーなのか。それとも、本当にあの時代のアニメには、今にはない「何か」があったのか。
四十手前になった今、真剣に考えてみたい。
セル画とは何だったのか:失われた錬金術
高校の文化祭で、美術部がアニメを作るというので見学に行ったことがある。1999年だから、まだギリギリセル画の時代だ。
透明なフィルム(セル)に、一枚一枚、手作業で絵を描いて、裏から絵の具で色を塗る。それを背景と重ねて、カメラで撮影する。部室の隅で、美術部員が肩を落として言った。「三秒のアニメ作るのに、一週間かかった」
一秒間のアニメを作るのに、24枚の絵が必要だ。一般的な日本のアニメは「3コマ打ち」といって、同じ絵を3フレーム使う。つまり、1秒で8枚。三秒で24枚。一週間かけて、たったの三秒。
「バカじゃん」って、当時の僕は思った。
でも、AKIRAは違った。
「2コマ打ち」。つまり、1秒で12枚。総作画枚数は、約15万枚。制作費10億円。1988年の、この数字だ。
大学に入って、映画研究会でこの事実を知ったとき、酒を吹いた。10億円。バブルの狂気だ。いや、今でもこんなことをする作品は、ジブリを除けばほとんどない。
エヴァンゲリオン旧劇場版『Air/まごころを、君に』は、1997年。セル画とデジタルの過渡期に作られた。あの頃、アニメ業界は大きな転換点にいた。セル画の手作業の温かみと、デジタル撮影の自由度が、奇跡的に融合した作品だった。
なぜ、あんなに凄かったのか。
三十代になって、アニメ業界で働く友人何人かに話を聞いて、ようやく気づいた。
答えは、「物理的な制約」にあった。
制約こそが芸術を生む:セル画の不自由さ
アニメーターの友人が、酔った勢いでこんなことを言った。「デジタルになってから、みんな怖がらなくなった」
何を怖がらなくなったのか。
失敗を、だ。
セル画制作には、恐ろしいほどの制約があった。
制約1:修正ができない
デジタルなら、Ctrl+Zで何度でもやり直せる。間違えても、レイヤーを削除すればいい。でも、セル画は違う。一度塗った絵の具は、乾いたら終わり。間違えたら、そのセルは使えない。最初からやり直し。
だから、アニメーターは一筆一筆、祈るような気持ちで塗っていた。友人曰く、「手が震えるんだよ、マジで」。
その緊張感が、画面に出る。
制約2:色数が限られる
セル画用の絵の具「アニメカラー」は、色数が限られていた。デジタルのように、1677万色から選べるわけじゃない。カタログにある色だけ。在庫がなければ、似た色で代用するしかない。
だから、限られたパレットの中で、最大限の表現を追求した。
音楽だってそうだろう。三つのコードだけで名曲は作れる。制約は、創意工夫を生む。無限の選択肢は、時に思考を麻痺させる。
制約3:重ねるセルの枚数に限界がある
セルを何枚も重ねると、下のセルが暗くなる。透明なはずのセルも、重ねれば光を遮る。だから、重ねられる枚数には限界があった。普通は3枚くらいまで。
だが、AKIRAは、重ねるセルの枚数が通常の3倍にもなったという。その結果、撮影は困難を極め、ゴミやホコリを取るのに膨大な時間がかかった。撮影ミスも多発した。
大友克洋監督は、公開後も作品の完成度を追求し続けた。劇場公開時には、セル位置のズレや色の塗り間違いなど細かいミスが残っている状態だったが、1988年12月の国際映画祭への出品に向けて、さらに1億円を追加投資し、200枚の画を描き直した。「完璧」への、執念だ。
今のアニメなら、デジタルで簡単に修正できる。ボタン一つで色を変えられる。レイヤーをいくら重ねても、暗くならない。
便利だ。でも、あの「物理的な限界との戦い」は、もうない。
その戦いの痕跡が、セル画には刻まれている。画面を見れば、わかる人にはわかる。ああ、ここで苦労したんだなって。
空気を撮影する技術:カメラとセルの間の魔法
二十代の頃、秋葉原の古いアニメショップで、エヴァのセル画が売られていた。五万円。給料日前で買えなかったけど、じっと見つめた記憶がある。
セルと背景の間には、わずかな空間がある。カメラとセルの間にも、空間がある。その「何もない空間」を通る光が、微妙な遠近感を生み出していた。
デジタルアニメには、この「空間」がない。全てがフラットなレイヤーだ。Photoshopで重ねただけ。物理的な距離が、ない。
ディズニーは、デジタル移行初期に、この「空気感」を再現しようと試みた。でも結局、手間がかかりすぎるという理由で断念したらしい。
「観客はそこまで気にしてない」
そう判断されたんだろう。
でも、違う。僕たちは気づいている。無意識のレベルで、その違いを感じ取っている。言葉にできないけど、何かが違うって。
2015年、渋谷のギャラリーでエヴァンゲリオンのセル画展があった。仕事を早退してまで観に行った。実物のセルを見たとき、鳥肌が立った。
ガラスケースの向こうにあるセルが、光を受けて、わずかに虹色に輝いていた。絵の具の厚み、セルの反射、背景との距離。全てが、そこに「ある」。
これ、データじゃ絶対に再現できない。
セル画は、ただの絵ではない。制作者の「体温」が残っている。汗も、タバコの匂いも、徹夜の疲労も、全部。
線が語る物語
大学の先輩で、アニメーターになった人がいる。たまに飲むと、昔の話をしてくれる。
「トレスマシンでセルに線を写すとき、手が震えんだよ。一発勝負だから」
セル画時代、アニメーターは鉛筆で原画を描き、それをトレスマシンでセルに転写していた。機械を使っても、結局は手作業。線には、微妙な揺らぎが残った。絵の具の色が混じることもあった。太さも、完全には均一にならなかった。
でも、デジタル化で、線は完璧に均一になった。色が混じることもない。太さも一定。綺麗だ。クリアだ。
綺麗すぎて、冷たい。
2013年の『キルラキル』を初めて観たとき、「おっ」と思った。あえてデジタルで、セル画のような太く荒々しい線を再現していた。翌年の『ガンダム Gのレコンギスタ』は、さらに進化して、線の強弱まで表現した。
なぜ、わざわざそんなことを?
答えは明白だろう。デジタルの完璧な線には、「生きている感じ」がなかったからだ。
2019年、中野でAKIRAのセル画展があった。原画を食い入るように見た。
線に、迷いがない。緻密に描かれている。何本も線を重ねて修正した跡がない。一本で勝負している。プロの仕事だ。
でも同時に、人間が描いたことがわかる。完璧じゃない。でも、魂がある。
デジタルの線は、完璧だ。でも、完璧すぎる。
人間の手の揺らぎ、迷い、力強さ。それらが、線に宿っていた。今はもう、ない。
画面ブレという名の「リアリティ」
友人とエヴァの旧劇場版をBlu-rayで観たとき、こんなことを言われた。
「画面、ちょっとブレてない?」
ブレてる。微妙に、ブレてる。
セル画時代のアニメには、「画面ブレ」があった。撮影時に、カメラやセルがわずかに動いてしまうことで生じるブレだ。技術的には、欠陥だった。
でも、それが「リアル」だった。
デジタル移行後、画面ブレは消えた。全てが完璧に静止するようになった。ピタッと止まる。一ピクセルもズレない。
でも、違和感があった。あまりにも完璧すぎて、逆に不自然だった。人形が動いているみたいで、生きている感じがしない。
だから、多くのアニメが、わざわざ画面ブレを「追加」するようになった。デジタルで、アナログの不完全さを再現する。馬鹿馬鹿しいと思わないか。でも、必要なんだ。
ワンピースの映画版は、2004年まで予告編に画面ブレを入れていた。ジブリ作品も、ほとんどに画面ブレ表現が組み込まれていた。
完璧を求めているんじゃない。「生きている感じ」を求めているんだ。
手ブレ補正が完璧なスマホの動画より、ちょっとブレてる昔のホームビデオの方が、温かみがある。そういうことだ。
情報量の暴力:AKIRAが見せた狂気
高校生のとき、深夜にテレビでAKIRAを初めて観た。
圧倒された。
情報量が、異常だった。一般的な日本のアニメでは、口の形は3種類程度。「あ」「い」「う」くらいだ。でも、AKIRAは7種類に描き分けていた。しかも、声優の声を先に録音して、その芝業に合わせて作画する「プレスコ」方式を採用していた。
口パクが、完璧にセリフと一致している。これ、日本のアニメではほとんどやらない。手間がかかりすぎるからだ。ディズニーはやる。でも、日本では無理だった。予算が、ない。
AKIRAは、やった。
背景の描き込みも、狂っていた。ネオ東京の看板、一つ一つに文字が書いてある。メカの細部まで、徹底的に描き込んでいる。爆発の一つ一つが、全部違う。
大学で映画研究会に入って、先輩に教えてもらった。「のたうち回るガス配管」のシーン。あの描写のために、複数のカットを使っている。普通のアニメなら、省略する部分だ。でも、AKIRAは描いた。
なぜか。
大友克洋監督が、「リアリティ」を追求したからだ。アニメでありながら、実写のような質感を目指した。
今のアニメは、CGで簡単に動かせる。ボタン一つで、爆発エフェクトが出る。便利だ。
でも、CGの動きは、どこか「軽い」。物理的な重さがない。質量を感じない。
セル画は、一枚一枚、人間が描いている。だから、重さがある。質量がある。存在感がある。
金田のバイクが画面を駆け抜けるとき、その重量が伝わってくる。鉄とゴムとガソリンの匂いがする気がする。
CGには、それがない。
デジタルの罠:便利さが奪ったもの
デジタルアニメのメリットは、誰もが認めるところだ。
修正が簡単。コストが削減できる。制作期間が短縮できる。色数が無限。特殊効果が自由自在。
素晴らしい。アニメーターの友人も、「デジタルになって、体は楽になった」と言っていた。
でも、続けてこうも言った。
「でもさ、なんか、つまんなくなった気もするんだよね」
この「つまんない」は、何なのか。
これらのメリットは、全て「効率」に関するものだ。「効率」と「芸術性」は、必ずしも一致しない。いや、むしろ反比例することの方が多い。
セル画時代、アニメーターは制約の中で戦った。限られた色数、限られた時間、限られたセルの枚数。その制約が、創意工夫を生んだ。
「この色がないなら、この色で代用しよう」 「セルを重ねられないなら、別の方法で表現しよう」 「時間がないなら、ここは省略して、ここに力を入れよう」
そういう判断の連続だった。
デジタルは、その制約を取り払った。でも、同時に、「戦う相手」も失った。
今のアニメは、きれいだ。完璧だ。でも、「戦った痕跡」が見えない。
エヴァンゲリオン旧劇場版の制作に関わった人が、インタビューでこう語っていた。「セル画には、執念のようなものが込められている」。
執念。
この言葉が、全てを語っている。デジタルには、執念を込める「余地」がない。失敗しても、やり直せばいい。だから、一回一回の作業に、命を賭ける必要がない。
便利になった。でも、何かを失った。
クラウドより凄い技術だった、という皮肉
ここで、三十代半ばになって気づいた、驚くべき事実を書きたい。
IT企業で働く友人と、復活の呪文の話で盛り上がったあと、ふと思った。
セル画も、同じじゃないか?
セル画は、どのVHSデッキでも、どのテレビでも、同じように再生できた。規格が統一されていたからだ。友達の家で録画したエヴァのビデオテープを借りて、自分の家で観る。何の問題もなかった。
今のデジタルアニメは、ファイル形式がバラバラだ。mp4、mkv、avi。コーデックも、H.264、H.265、VP9。解像度も、720p、1080p、4K。フレームレートも、24fps、30fps、60fps。
全部、バラバラ。10年後、今のデータが再生できる保証はない。いや、実際、10年前のデータが再生できなくて困ったことがある。
でも、セル画は違う。フィルムは、100年後も再生できる。物理的に存在するからだ。プロジェクターと光源さえあれば、映せる。
2018年、国立近代美術館でAKIRAのセル画展があった。土曜日に行ったら、行列だった。みんな、あの絵を直接見たかったんだ。
デジタルデータに、そんな「ありがたみ」はない。
セル画は、一点物だ。原画は、この世に一枚しかない。エヴァの第弐拾伍話のあのカットのセルは、地球上にたった一枚。
デジタルは、無限に複製できる。Ctrl+Cで、同じものがいくらでも作れる。
希少性が、価値を生む。
技術的には退化しているはずなのに、価値は上がっている。この矛盾。
なぜ今のアニメは「きれいすぎる」のか
去年、甥っ子と一緒にアニメ映画を観た。最新作だ。作画は素晴らしかった。
「すごいね」と甥っ子。
「うん、すごい」と僕。
でも、心の中で思った。すごいけど、心に残らないな、これ。
デジタルアニメは、完璧だ。
色は均一。線は一定。画面はブレない。ノイズもない。ゴミもホコリもない。4Kで、HDRで、60fpsで。スペック的には最高だ。
でも、完璧すぎて、「人間の気配」がない。
セル画には、色ムラがあった。線の揺らぎがあった。画面がブレた。ゴミが映り込んだ。セル位置がズレた。
それらは、全て「欠陥」だった。でも、その欠陥が、「手作りの証」だった。
ああ、これ、人間が作ったんだな、って。何十人ものアニメーターが、徹夜して、手を動かして、作ったんだな、って。
完璧な機械を見たいんじゃない。不完全な人間の仕事を見たいんだ。
庵野秀明監督は、「一般社団法人アニメ特撮アーカイブ機構」を設立して、セル画の保全に努めている。セル画には寿命がある。約100年で劣化する。
100年後、セル画は消える。
でも、デジタルデータは残るのか?
ハードディスクは壊れる。SSDも寿命がある。クラウドに上げても、サービスが終了したら終わり。ファイル形式が古くなって、再生できなくなるかもしれない。
答えは、わからない。
物理的に存在するものの方が、案外、長生きする。皮肉だ。
結論:デジタルはセル画に勝てない、という呪い
なぜ、デジタルはセル画に勝てないのか。
四十手前になって、ようやくわかった。
答えは、「物理的な制約がないから」だ。
制約は、創造性を生む。限界は、挑戦を生む。不完全さは、人間らしさを生む。
セル画は、一枚一枚、人間が命を削って描いた。間違えたら、やり直し。色を塗り間違えたら、最初から。セルを重ねすぎたら、暗くなる。撮影に失敗したら、全て水の泡。
そんな綱渡りのような制作現場で、アニメーターは戦った。
その戦いの痕跡が、セル画には刻まれている。画面を見れば、わかる。ああ、ここで苦労したんだな、って。ここで誰かが徹夜したんだな、って。
デジタルには、その痕跡がない。Ctrl+Zで、全てが元に戻る。失敗しても、やり直せる。だから、一回一回の作業に命を賭ける必要がない。
命を削らない仕事に、魂は宿らない。
もちろん、これは極論だ。今のアニメーターも、命を削って働いている。デジタルだから楽、なんてことは絶対にない。むしろ、納期は短くなり、要求は高くなっている。
でも、セル画時代の「物理的な戦い」は、もうない。
重いセルを運ぶ苦労。乾かない絵の具を待つ時間。撮影台の汚れと格闘する日々。インクが手につく感触。セルが光を反射する美しさ。
それらは、全て「非効率」だった。でも、その非効率さが、作品に「重み」を与えていた。
アニメ業界で働く友人が、最後にこう言った。
「デジタルは便利だよ。でも、あの頃の方が、楽しかった気がする」
楽しかった。
この言葉が、全てだ。
エピローグ:失われつつある技術への鎮魂歌
2024年夏、深夜アニメ『負けヒロインが多すぎる!』のエンディングが話題になった。
セル画で作られていた。
地上波アニメでセル画が使われるのは、サザエさん以来10年9ヶ月ぶり。Twitterが、ざわついた。
「え、まだセル画で作れるの?」 「誰が描いたんだろう」 「もう技術者いないんじゃ」
なぜ、わざわざセル画を使ったのか。
答えは明白だ。「特別感」を出すためだ。
セル画は、もはや「特別な技法」になった。かつては当たり前だったものが、今や希少価値を持つ。カセットテープやレコードと同じだ。
皮肉だ。でも、それが現実だ。
AKIRAは、1988年の作品だ。エヴァンゲリオン旧劇場版は、1997年。
あれから、三十年近く経った。技術は進化した。CGは発達した。4K、8K、120fpsの時代だ。VRもある。AIもある。
でも、僕たちは、まだAKIRAを語り、エヴァを語る。
なぜか。
答えは、「あの時代にしか作れなかったから」だ。
セル画という技術。バブル経済という時代。破格の予算。狂気じみた情熱。物理的な制約との戦い。そして、「これが最後かもしれない」という覚悟。
それらが、奇跡的に重なった結果が、AKIRAであり、エヴァだった。
今、同じことをやろうとしても、できない。セル画用のセルは、もう製造されていない。アニメカラーも、入手困難だ。技術を持った職人も、引退している。
技術は、失われた。
でも、作品は残った。Blu-rayで、4Kリマスターで、何度も再販されている。
そして、僕たちは、その作品を見るたびに思う。
「昔のアニメの方が、なんかすごかった」
それは、気のせいではない。本当に、すごかったのだ。
デジタルがセル画に勝てない理由。それは、「勝つ必要がなかった時代の産物だから」だ。
セル画は、効率を無視して、ただ「良いもの」を作ることだけを考えた。締め切りはあったけど、妥協はしなかった。予算はあったけど、それ以上にこだわった。
今のアニメは、効率を考えざるを得ない。締め切りがあり、予算があり、人手不足がある。配信のスケジュールがあり、円盤の売上があり、スポンサーの意向がある。
その制約の中で、みんな頑張っている。今のアニメーターを、僕は心から尊敬している。
でも、「物理的な制約との戦い」は、もうない。
だから、勝てない。
セル画は、もう作れない。だから、永遠に負け続ける。
これは、呪いだ。
便利になればなるほど、失われるものがある。効率を追求すればするほど、魂が薄れる。
デジタルは、完璧だ。でも、完璧すぎて、人間臭さがない。
僕たちは、不完全なものを愛する。傷があるものを、愛する。
だから、セル画を愛する。だから、AKIRAを語り続ける。だから、エヴァを見返す。
あの時代は、もう戻らない。
でも、作品は残る。
それでいい、と思う。
先週、また居酒屋で友人と飲んだ。
「結局さ、昔のアニメがすごかったのって、気のせいじゃなかったんだな」
「うん。本当に、すごかった」
ビールを飲み干して、僕は言った。
「でも、今のアニメも、二十年後には『昔のアニメはすごかった』って言われるのかもな」
「それな」
そうかもしれない。でも、セル画の質感は、もう二度と作れない。
それだけは、確かだ。
(2026年2月、深夜に一人でAKIRAの4Kリマスター版を観て、また泣いてしまった著者より)
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