📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- 階のボタンを押すタイミングも、奥か手前かの立ち位置も、まるで社交ダンスの初心者のようにぎこちない。
- たった十数秒の密室が、なぜこうも精神力を削るのだろう。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
階のボタンを押すタイミングも、奥か手前かの立ち位置も、まるで社交ダンスの初心者のようにぎこちない。
たった十数秒の密室が、なぜこうも精神力を削るのだろう。
無事に一人になれた安堵感で、肩の力がふっと抜けた。
私はマンションの四階に住んでいる。
ここ数週間、ずっと気になっていたテレビのアンテナケーブルを、ようやく繋ぐ日が来た。
そう、ケーブルだ。
引っ越してきて早三年。
この部屋のテレビは、もっぱらDVDやブルーレイを再生する箱と化していた。
時々、ネット動画を大画面で楽しむこともあったけれど、それもまあ、年に数回あるかないか。
ケーブルの存在は知っていたけれど、なんとなく「あとでやろう」と先延ばしにしていたのだ。
怠惰、というよりは、テレビを「観る」という行為そのものに対する優先順位が、私の生活の中では限りなく低くなっていたのかもしれない。
まるで、棚の奥で化石化した非常食のように、そこにあるのは知っているけれど、今すぐ必要かと言えばそうでもない、といった感覚だった。
昔の私は、もう少しマメだった気がする。
二十代の頃なんて、新しい家電を買えばすぐに説明書を隅々まで読み込んで、一通りの機能を試さないと気が済まなかった。
テレビなんて、家に届いたその日のうちに、アンテナケーブルを繋ぎ、チャンネル設定をし、BSもCSもきっちり契約して、録画予約も完璧にこなしていたものだ。
週末は、レンタルビデオ店で新作を借りまくり、徹夜で映画を観るのが最高の贅沢だった。
ブラウン管の重たいテレビを抱えて、友人宅と自宅を行き来したりもしたっけ。
あの頃の映画は、今と違って情報が限られていたから、口コミや雑誌の評価を頼りに、宝探しのように一本一本を大切に選んでいたような気がする。
夜中に一人で観るホラー映画に、何度も心臓を飛び出させそうになったり、ラブストーリーに感情移入して、翌日会社で目が腫れぼったくなったり。
「週末は映画三昧だから」という理由で、友人の誘いを断ることも珍しくなかった。
あの頃の私は、映画の世界にどっぷり浸かることを、何よりも楽しみにしていた。
それがどうだろう。
今の私は、Amazonで注文したケーブルが届いてから、段ボール箱を玄関に放置すること一週間。
中身を取り出してからも、テレビの裏に回り込んで、埃まみれのソケットを探し出すまでにさらに二日。
なんだか、こう、一歩踏み出すまでの腰が重い。
まるで、健康診断の結果を見るのを怖がるように、あるいは、苦手な人に返信するのを先延ばしにするように、何かしらの億劫さが伴う。
正直、別にテレビが映らなくても困らないのだ。
読書や映画鑑賞が趣味と言いつつ、最近は本をパラパラとめくるだけで満足してしまったり、昔観た映画のレビューを読んでは「ああ、そうだったな」と分かった気になったり。
新作映画も、予告編で十分お腹いっぱい、ということが増えた。
あの頃の情熱はどこへ行ったのか。
時々、自分の熱量の減衰ぶりに、ちょっとした寂しさを覚える。
いざ、ケーブルを繋いでみた。
挿し込む瞬間、カチッと安っぽい音がして、何だか拍子抜け。
そして、リモコンを手に、恐る恐る電源を入れる。
砂嵐の画面から、一瞬で色鮮やかな映像が飛び出してきた。
おお、映った!
と思わず声が出た。
そのまま、チャンネルを回していく。
キー局のニュース、バラエティ、ドラマ。
ああ、世の中はこうなっていたのか。
浦島太郎状態だ。
そして、デジタル放送ならではの、クリアすぎる映像に、なんだか落ち着かない気分になる。
昔のテレビの、少しざらついた、あるいはぼんやりとした画質が、かえって想像力を掻き立てていたような気がしないでもない。
いくつかのチャンネルをザッピングして、ふと、あるチャンネルで手が止まった。
画面には、見慣れない風景と、耳慣れない方言が飛び交っている。
画面の隅には、地元感満載のロゴマーク。
どうやら、この地域限定のローカル局らしい。
番組名は「〇〇(地名)の元気印!
おらほの町内会」。
タイトルからして、もうすごい。
画面には、地元の公民館で行われている老人会のカラオケ大会の様子が映し出されていた。
ステージで、ちょっと音程の外れた民謡を熱唱するおばあちゃん。
その脇で、手拍子をする町内会長らしきおじいちゃん。
そして、その様子を、まるで感動ドキュメンタリーのように真剣な眼差しで見つめるリポーター。
彼女の表情は、完全に「感動しています!
」と書かれていた。
「いや、マジか」と、私は思わずテレビに向かってツッコミを入れていた。
「どローカル過ぎるだろ、これ!
」
あまりの衝撃に、ソファからずり落ちそうになった。
横転、とまではいかないが、完全に前のめりになって画面に釘付けになった。
これが、私が三年ぶりに繋いだアンテナケーブルが導き出した、現代のテレビ番組の最先端だった。
しかも、この番組、CMも全部ローカルなのだ。
〇〇工務店、〇〇商店街の福引、〇〇市指定ごみ袋の買い方講座。
BGMもどこか牧歌的で、昭和の匂いがプンプンする。
まるで、タイムスリップしたかのような感覚だった。
昔の自分なら、こんな番組は一瞥しただけでチャンネルを変えていただろう。
「なんだこれ、つまらない」と切り捨てていたかもしれない。
あの頃は、とにかく刺激を求めていた。
都会的で洗練されたもの、目新しいもの、華やかなもの。
そういうものばかりを追いかけていた。
テレビで言えば、東京キー局の最先端の番組ばかりに目を奪われていたし、映画も海外のアート系や話題作ばかり見ていた。
地元のお祭りや、地域密着型のイベントなんて、全く興味がなかった。
むしろ、そういうものから距離を置くことが、自分にとっての「おしゃれ」だと思い込んでいた節もある。
でも、今の私は、なんだかこの「どローカル」な世界に、妙に心を掴まれてしまった。
変な中毒性がある。
画面の中で、おばあちゃんが歌い終わると、町内会長が「素晴らしい歌声でしたね!
〇〇さんの人生が詰まった一曲でした!
」と大袈裟に褒め称え、周りから拍手が沸き起こる。
その光景が、何だかとても温かくて、そして、ちょっとだけ滑稽で。
ふふ、と笑みがこぼれた。
なんだろう、この、心のざらつきが取れていくような感覚は。
昔は気づかなかった、あるいは、気づこうとしなかった、地方の小さなお祭りや、駅前の商店街の賑わい、そういうものに、今の私は妙に惹かれるようになった。
変わったことと言えば、そういう「許容量」みたいなものが増えたことだろうか。
昔は、効率やスピードを重視し、無駄を嫌っていた。
情報は一秒でも早く、映像はハイクオリティで、ストーリーはスピーディーに。
そういうものを求めていた。
だけど今は、たとえ多少の無駄があっても、多少の間の悪さがあっても、それを面白がれるようになった。
いや、むしろ、そういう「隙間」にこそ、人間の営みや、その土地ならではの温かさがあるような気がする。
ローカル番組の、あの絶妙な間合い、編集の素人っぽさ、出演者のぎこちなさ。
それらすべてが、かえって人間味に溢れていて、私の心を和ませるのだ。
変わらないことは、結局のところ、私は私だということ。
相変わらず、面倒くさがりで、一度やると決めたことでも、すぐにサボってしまう。
アンテナケーブルを繋ぐまでに三年もかかったのだから、その怠惰ぶりは健在だ。
でも、その怠惰の向こう側で、予期せぬ発見があることもある。
このローカル番組だって、もし私がきっちり引っ越し初日にケーブルを繋いでいたら、もしかしたらすぐにチャンネルを変えて、その面白さに気づかなかったかもしれない。
三年という時間の「熟成」が、私の中に、この「どローカル」を受け入れる器を作ってくれたのかもしれないな、なんて、ちょっと大袈裟に考えてみたりする。
テレビを消すと、再び静寂が戻ってきた。
画面の余韻はまだ残っている。
あのカラオケのおばあちゃん、次の曲は何を歌うんだろう。
そして、あのリポーターは、次にどんな地元の「元気印」を探しに行くんだろう。
次にテレビをつけるのは、また数日後か、数週間後か。
それも、私の気分次第だろう。
でも、少なくとも、もう砂嵐を見ることはない。
そして、この部屋のどこかに、あの「おらほの町内会」が、ひっそりと電波に乗って流れている、という事実。
それが、なんだか、私の日常に、ささやかな彩りを添えてくれるような気がした。
明日、スーパーの帰り道、もしかしたら、あの町内会長に似たおじいちゃんを見かけるかもしれないな、なんてことを考えながら、私はゆっくりと立ち上がった。
明日の晩酌は、ちょっとだけ、いつもより楽しいものになる気がする。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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