📝 この記事のポイント
- どこかの次元の狭間に吸い込まれて、別の世界で靴下だけのユートピアでも築いているのだろうか。
- それとも、わが家の洗濯機には、定期的に靴下を誘拐するサイコパスな妖精が住み着いているのかもしれない。
- 干す時にうっかり落として、そのまま気がつかないで乾燥機に入れてしまっている、なんてオチだろう。
洗濯物を干していたら、靴下の片方がない。
これで今月3枚目である。
一体どこへ消えたんだ、うちの靴下たちは。
どこかの次元の狭間に吸い込まれて、別の世界で靴下だけのユートピアでも築いているのだろうか。
それとも、わが家の洗濯機には、定期的に靴下を誘拐するサイコパスな妖精が住み着いているのかもしれない。
いや、きっと犯人は私だ。
干す時にうっかり落として、そのまま気がつかないで乾燥機に入れてしまっている、なんてオチだろう。
ああ、また息子に「パパ、靴下片っぽがないよ!
」と笑顔で宣告される未来が見える。
あの笑顔の裏で、奴はきっと「またかよ」と呆れているに違いない。
妻からは「ちゃんと見てよ」と冷たい視線を浴びるのが定番だ。
毎度毎度、反省はするのだが、次の洗濯の時にはもう忘れている。
これが40代既婚男性の悲しき性なのである。
そんな靴下片方行方不明事件に頭を悩ませながら、夕飯の献立を考えていた。
冷蔵庫には特売で買ったシャケの切り身が鎮座している。
焼くか、煮るか。
いつも通りの選択肢。
ここでふと、脳裏に閃光が走った。
「シャケ、フライにしたら美味いんじゃないか?
」と。
いや、美味いに決まっている。
アジフライ、エビフライ、カキフライ。
フライに美味しくないものなんてこの世に存在するのだろうか。
いや、存在しない(反語)。
特に魚介類のフライは、その身のジューシーさと衣のサクサク感のコントラストがたまらない。
そして何より、シャケのあの独特の旨味と脂の乗り方。
あれをフライにしたら、きっと白身魚のフライとはまた違った、もっとこう、力強くも繊細な、それでいてどこか懐かしさを覚える、そんな至高の一品が爆誕するのではないか。
想像しただけで、口の中が唾液で洪水警報である。
しかし、なぜだろう。
スーパーの惣菜コーナーで、アジフライやエビフライは山ほど売っているのに、シャケフライは滅多に見かけない。
ごくたまに、地元のちょっと気の利いたお弁当屋さんで見かけるくらいで、定番商品ではない。
あれだけ国民的な魚であるシャケが、なぜフライの世界ではこれほどまでにマイナーな扱いを受けているのか。
これには何か、我々一般市民には知りえない、プロの料理人たちの間で密かに交わされている「シャケフライに関する禁忌」でもあるのだろうか。
たとえば、「シャケをフライにすると、衣が油を吸いすぎて地獄の窯の蓋が開く」とか、「揚げている間に身が崩壊して、二度と元の形には戻らない」とか、そういう裏設定があるのかもしれない。
いや、まさか。
そんなはずはない。
きっと、単純に「手間がかかる」とか、「コストが見合わない」とか、そういう現実的な理由なのだろう。
夢がない話で恐縮だが、これが大人の事情というやつだ。
でも、私は諦めない。
このシャケフライへの情熱は、片方行方不明の靴下を探す情熱よりもはるかに強い。
いや、靴下は結局見つからないことがほとんどだから、情熱の方向性が違うか。
とにかく、このシャケフライへの探求心は、もはや私の人生の一部のようになっている。
先日、家族でデパートの地下食品売り場をぶらついていた時も、無意識のうちにフライコーナーを凝視していた。
妻が「また何か企んでるでしょ」と鋭い眼光で私を見つめるので、「いや、シャケフライないかなって…」と蚊の鳴くような声で答えたら、「あんた、そればっかりだね」と呆れられた。
小学3年生の娘は、「パパ、アジフライでいいじゃん」と現実的な提案をしてくるし、小学1年生の息子は、私のズボンの裾を引っ張りながら「僕、エビフライがいい!
」と純粋な食欲をぶつけてくる。
彼らにとっては、シャケフライはまだ「幻の食べ物」なのだ。
結局、その日もシャケフライは見つからず、代わりに特売のエビフライとアジフライを買って帰った。
しかし、私の心の中では、シャケフライへの炎は消えるどころか、ますます燃え盛っている。
いつか、自分で作ってみようかとも思った。
衣をつけて、油で揚げるだけ。
言うのは簡単だが、料理はそんなに甘くない。
かつて、私が家族に腕前を披露しようと、とある休日の昼食に唐揚げを作った時のことだ。
レシピ通りに下味をつけ、揚げる直前まで完璧だった。
しかし、いざ油に投入すると、たちまち衣が剥がれ落ち、鶏肉は裸になって油の中を漂う始末。
しかも、火が通りすぎてパッサパサになり、家族からは「パパ、鶏肉の味噌汁?
」と聞かれる始末だった。
あの時の挫折感は、今でもトラウマだ。
それ以来、揚げ物料理は妻の専売特許となっている。
だから、シャケフライを自分で作るというのは、私にとってかなりのハードルが高い。
失敗して、せっかくのシャケを無駄にするわけにはいかない。
シャケは、子供たちも大好きな魚だ。
もし私がフライに失敗して、彼らがシャケ嫌いになったら、それはもう取り返しのつかない罪である。
いや、それは大げさか。
でも、子供たちの食事に対する期待感というのは、大人以上に純粋で、裏切られた時の悲しみもまた純粋なのだ。
あのキラキラした瞳を曇らせるわけにはいかない。
だからこそ、私は慎重にならざるを得ない。
妻に相談してみるのも手だが、きっと「また変なこと考えてる」と一蹴されるのがオチだろう。
彼女は合理的な人間で、私のように「なぜ世の中にシャケフライがないのか」などという哲学的な問いには、一切興味を示さない。
でも、先日、とあるテレビ番組で、地方の小さな定食屋さんを紹介していた。
そこの看板メニューが、なんと「自家製シャケフライ定食」だったのだ。
画面に映し出されたそれは、こんがりと揚がった衣に包まれた、肉厚なシャケの切り身。
一口食べたレポーターが、「これ、サクサクで中はジューシー!
シャケの旨味がぎゅっと閉じ込められてます!
」と叫んでいた。
私はテレビ画面に釘付けになり、思わず「ほら見ろ!
」と独りごちた。
隣でゲームをしていた息子が、「パパ、何に怒ってるの?
」と不思議そうな顔で私を見上げた。
いや、怒っているわけではない。
ただ、私の長年の仮説が、ついにテレビで証明されたことに感動していただけなのだ。
あのシャケフライは、衣が剥がれ落ちることもなく、身が崩壊することもなく、完璧な姿で皿に盛られていた。
プロの技というのは、やはり違う。
衣のつけ方、油の温度、揚げる時間。
きっと、そこには素人には知りえない秘密が隠されているのだろう。
しかし、あの映像を見て、私のシャケフライへの情熱は、さらに加速した。
いつか、あの定食屋さんに行って、本物のシャケフライを食べる。
それが今の私の、ささやかな夢である。
家族を連れて、プチ旅行がてら、その定食屋さんまで足を延ばすのもいいかもしれない。
いや、待てよ。
家族に「シャケフライのためだけに、そんな遠くまで行くの?
」と言われるのが目に見える。
きっと、途中で「遊園地行きたい!
」とか、「水族館がいい!
」とか、子供たちの別のリクエストが飛び出して、シャケフライの旅はあっけなく中断されるのだろう。
結局、私のシャケフライへの道は、常に障害物に満ちている。
それでも、私はこの探求をやめることはできない。
なぜなら、あの幻の味を一度でも想像してしまったからだ。
シャケフライは、私の人生における、片方行方不明の靴下のようなものなのかもしれない。
いつもどこかにあるはずなのに見つからない。
でも、見つからないからこそ、その存在を強く意識してしまう。
そして、いつか、ひょんなことからひょっこり現れて、私を驚かせる。
そんな日が、来るのかもしれない。
その日のために、私は今日もシャケの切り身を眺め、フライにする妄想を繰り広げる。
そして、きっと今日も、妻に「あんた、今夜は何が食べたい?
」と聞かれて、「シャケ…」と答え、またしても「焼くの?
煮るの?
」と現実的な質問を投げかけられるのだろう。
ああ、シャケフライへの道のりは、あまりにも長く険しい。
まるで、片方見つからない靴下を探し続ける人生のようだ。
でも、いつか見つかることを信じて、私は今日もシャケを食べる。
焼いたシャケも、煮たシャケも、もちろん美味しいのだから。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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