生昆布と小説と、私の胃袋と近所付き合いの話

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📝 この記事のポイント

  • 歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。
  • もう何回目だろう、この「すみません、すぐに確認します」の嘘。
  • でも、いつもその日に限って頭からすっぽり抜け落ちてしまう。

歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。

もう何回目だろう、この「すみません、すぐに確認します」の嘘。

手帳には確かに書いてある。

でも、いつもその日に限って頭からすっぽり抜け落ちてしまう。

きっと、その日は「今日の夕飯は何にしようか」とか、「あのドラマの続きが気になるな」とか、どうでもいいことで頭がいっぱいだったに違いない。

妻からは「ちゃんとリマインダー入れなよ」と呆れた声で言われるけれど、そういうアナログな失敗こそ、人間らしいじゃないか。

と、自分に言い聞かせて、次の予約を入れ直した。

ここ最近、どうにも胃の調子が良くない。

食べると胃のあたりがむかむかして、ときには吐き気まで催す。

最初は、小説を読みすぎているせいだと思った。

最近、やけに暗い作品ばかり手に取っていたからだ。

登場人物はみんな不幸で、物語の終わりには希望のかけらも見当たらない。

そういう重たい話を読み終えるたびに、胃のあたりがずしんと重くなるような気がしていた。

これはきっと、精神的なものが肉体にも影響を及ぼしているに違いない。

感受性が豊かすぎるのも考えものだな、と自らを評したりもした。

例えば、近所の「緑の丘書店」でたまたま手に取った、とある文学賞受賞作。

主人公が失踪した恋人の面影を追い求める、というストーリーなんだけど、それがもう、救いがなくて。

読むたびに、私の胃のあたりは冷え込み、重苦しい鉛でも入っているかのようだった。

特に食後に読むと、もうダメだ。

吐き気が込み上げてくる。

「またそんな暗い本読んでるの?

胃に悪いよ」
妻も心配そうに言ってくる。

だから、しばらくの間、小説から距離を置くことにした。

代わりに、テレビのお笑い番組や、昔の少年漫画を引っ張り出してきて読んでみた。

胃腸に優しいエンターテイメントで、精神的なデトックスを図ろうとしたわけだ。

しかし、小説を読まなくなっても、吐き気は収まらなかった。

朝食の後、昼食の後、そして夕食の後。

決まって食後にやってくる、あのむかむか感。

これはおかしい。

精神的な問題ではないのかもしれない。

むしろ、もっと物理的な、そして日常に潜む原因があるのではないか。

そう思い始めたのは、ある日の朝食時のことだった。

ご飯と味噌汁、焼き魚、そして箸休めに添えられた「生昆布」。

我が家では、妻の実家から定期的に送られてくる、とれたての新鮮な生昆布を常備している。

ご近所さんにもおすそ分けしたりする、ちょっとした名物みたいなものだ。

薄くスライスしてポン酢で食べるのが定番で、シャキシャキとした食感がたまらない。

健康にも良さそうだし、何より美味しい。

毎食、必ず小鉢に盛って食卓に並ぶ。

それが、最近どうも、一口食べた瞬間に、何とも言えない独特の匂いが鼻につくようになったのだ。

「あれ、この昆布、なんか変な匂いしない?


私が言うと、妻は「え、そう?

いつも通りじゃない?

」と、特に気に留める様子もなかった。

でも、私にはわかる。

いつもは磯の香りがするはずの昆布が、なんだか酸っぱいような、ツンとくるような、不穏な香りを放っている。

最初は「疲れてるのかな」「嗅覚が敏感になってるのかな」と自分のせいだと思った。

しかし、その日の夜。

夕食にまた生昆布が出てきた。

一口食べる。

やはり、あの嫌な匂いがする。

そして、その直後、胃がむかむかしてきた。

「これは、絶対に変だ」
私は確信した。

原因は、小説でもなければ、私の感受性でもない。

目の前にある、この生昆布だ。

食後に、残っていた生昆布をまじまじと観察してみた。

見た目には、特に変わったところはない。

きれいな緑色で、ぬめりもいつも通り。

でも、匂いを嗅ぐと、もう駄目だ。

酸っぱさと、ちょっと鼻を突くような刺激臭。

これは、まさか……。

「もしかして、これ、腐ってるんじゃない?


私がそう言うと、妻もさすがに顔色を変えた。

「ええ?

そんなはずないでしょ、この間、お義母さんが送ってくれたばかりだよ?


でも、においを嗅いだ妻も、一瞬固まった。

「……ん?

確かに、なんか、いつものと違うかも」
いつもは「新鮮なうちに食べてね!

」と、張り切って送ってくれる義母の生昆布。

しかし、どうやら今回は、新鮮なうちどころか、届いた時点で、あるいはその直後から、何らかの異常があったらしい。

よくよく調べてみると、生昆布は冷蔵保存が必須で、しかも結構デリケートな食材なのだとわかった。

特に、気温が高い時期は、ちょっとした温度変化で傷みやすいらしい。

妻の実家は、うちから車で30分ほどの距離にある。

いつも義母が、保冷バッグに入れて持ってきてくれるのだが、おそらくどこかの段階で、温度管理がうまくいかなかったのだろう。

私は、胃の不調の原因が生昆布だったと判明し、安堵と同時に、なんとも言えない脱力感に襲われた。

あれほど精神的なものだと決めつけて、暗い小説ばかり読むのをやめたり、お笑い番組を見たりしていたのに。

結局、原因は、毎食当たり前のように食卓に並んでいた、ごくごく身近な食材だったのだ。

「私、この腐った昆布、何日も食べてたってこと?


妻が青ざめた顔で呟いた。

私もだ。

何なら、妻より多めに食べていたかもしれない。

健康にいいと信じていたものが、実は胃を攻撃していたなんて、人生って皮肉だな。

その日以来、我が家の食卓から生昆布は一時的に姿を消した。

義母には、体調が悪いとだけ伝えて、昆布が原因であることは伏せた。

「ごめんね、せっかく持ってきてくれたのに」と恐縮する義母に、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、正直に話すのは気が引けた。

きっと、義母も一生懸命やってくれたはずだから。

胃の調子は、生昆布を食べなくなってから、徐々に回復していった。

吐き気は嘘のように消え去り、食後のむかむか感もなくなった。

やはり、腐敗した生昆布が原因だったのだ。

でも、この一件で、私は少しばかり、人間観察の面白さに目覚めたかもしれない。

近所のおばあちゃんが、毎朝同じ時間にゴミ出しをしている。

いつもきれいな格好で、まるでこれからお出かけするかのようだ。

ある日、たまたま私が朝早く出かける用事があって、ゴミ出しのおばあちゃんと鉢合わせた。

「あら、お早いのね」
と、にこやかに挨拶してくれた。

「ええ、ちょっと用事がありまして」
と返すと、おばあちゃんは続けて言った。

「この時間だと、みんなまだ寝てるから、静かでいいわねぇ。

私、この時間が一番好きよ」
その言葉を聞いて、私はハッとした。

きっと、おばあちゃんにとって、ゴミ出しは単なる日課ではなく、一日の始まりを告げる、ちょっとした「ご褒美」なのかもしれない。

誰もいない静かな街で、清々しい空気を感じながら、自分だけの時間を楽しんでいる。

そんな想像をしたら、なんだか心が温かくなった。

最近、義母から「この間、畑で採れたてのきゅうりがあるんだけど、どう?

」という連絡があった。

もちろん、二つ返事で「ぜひ!

」と答えた。

今度は、生昆布ではなく、新鮮なきゅうりだ。

きっと、きゅうりなら傷みにくいだろう。

義母が持ってきたきゅうりは、ツヤツヤして、いかにも美味しそうだった。

「ご近所さんにもおすそ分けしなさいね」
と、いつものように袋いっぱいのきゅうりを置いていった。

うちの隣に住む、ちょっと口うるさいことで有名な小川さんにも、さっそくおすそ分けしてみた。

普段は「最近の若いもんはねぇ…」と、どこか批判的な調子で話すことが多い小川さんだが、きゅうりを渡した瞬間、顔をぱっと輝かせた。

「あら、まあ!

立派なきゅうりだこと!

ありがとうねぇ、助かるわぁ」
満面の笑みで喜んでくれる小川さんを見て、私はなんだか嬉しくなった。

食材一つで、こんなにも人の表情は変わるものなのか。

そして、日頃のちょっとしたギスギスした関係も、こんなささやかなやり取りで、するりと溶けていくこともあるのだな、と。

結局のところ、人生なんて、腐った生昆布で胃を壊したり、新鮮なきゅうりで近所付き合いが円滑になったり、そんなことの繰り返しなのかもしれない。

期待していたことが裏切られたり、まさか、ということが起こったり。

でも、そのたびに、ちょっとした発見があったり、意外なところで救われたりする。

歯医者の予約をすっぽかして冷や汗をかいた日も、胃の調子が悪くて暗い小説のせいにしていた日々も、腐った生昆布の匂いに気づいた日も。

全部ひっくるめて、今日の私を形作っている。

そして、明日もまた、何かしらの「まさか」が起こるのかもしれない。

それでも、私はきっと、その「まさか」を、またどこか面白がって、そして、きっと、誰かに話したくなるのだろう。

今日の夕飯は、もらったきゅうりで、妻が何か作ってくれるらしい。

シンプルに塩もみでもいいし、味噌マヨネーズで食べるのもいいな。

ああ、考えるだけでお腹が空いてきた。

胃の調子がすっかり良くなった証拠だ。

やっぱり、人生、美味しくご飯が食べられるのが一番だよね。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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