延滞金と猫と、評価されないことへの慣れの話

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📝 この記事のポイント

  • 図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。
  • いや、正確には「払う羽目になった」というよりも、「払うことを選択した」に近いかもしれない。
  • だって、期限が過ぎたことに気づいたのは、猫のモカが私の腕に頭突きをかまして「ごはんまだぁ? 」と催促してきた、もうとっくに閉館時間を過ぎた夜中だったんだもの。

図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。

いや、正確には「払う羽目になった」というよりも、「払うことを選択した」に近いかもしれない。

だって、期限が過ぎたことに気づいたのは、猫のモカが私の腕に頭突きをかまして「ごはんまだぁ?

」と催促してきた、もうとっくに閉館時間を過ぎた夜中だったんだもの。

翌日、渋々図書館のカウンターへ行くと、職員さんは「大変申し訳ありませんが、一冊につき〇〇円の延滞金が発生しております」と、まるで私の不注意が世界を滅ぼすかのような真剣な表情で告げた。

別にいいんです、私の不注意ですから。

ただ、その事務的な口調に、少しだけ心がキュッとなったのは、私が根っからの小心者だからだろう。

延滞金は三百円だった。

たった三百円。

でも、たった三百円のために、私はなんだか大いに反省させられた気分になった。

これはもう、私に対する「ちゃんとしなさい」という宇宙からのメッセージなんじゃないか、と、大げさなことを考えながら自転車を漕いでいた。

日差しがじりじりと肌を焼く八月の昼下がり、アスファルトの熱気が下から立ち上って、やけに喉が渇いた。

自動販売機で冷たいお茶でも買おうかと思ったけれど、三百円払ったばかりで、なんだかそれも惜しくなって、結局そのまま家路を急いだ。

ケチくさい自分にも、ちょっとうんざりする。

家に帰り着くと、玄関のドアを開けた途端、モカとココアが足元にまとわりついてきた。

どうやら私が出かけたことすら気づいてなかったんじゃないかと思うくらい、二匹はのんびりした顔で尻尾を振っている。

猫って、こっちがどれだけ「あー、延滞金払っちゃったよぉ」と内心で嘆いていようが、まったく動じない。

彼らにとって世界の中心はいつだって自分自身。

その潔さが、たまらなく羨ましいときがある。

私ももう少し、自分勝手に生きていけたら、こんな些細なことでいちいち気分を落とすこともないのかもしれない。

なんて、延滞金三百円で哲学的な思考まで巡らせてしまうのだから、我ながら面倒な人間である。

そういえば、昔、大学の課題で提出した作品が、教授に「これは一体何がしたいんだ?

」と一言で片付けられたことがあった。

その時の心境は、まさに今日の延滞金を払う時と同じような、妙な納得感と、じわじわとくる情けなさだった。

いや、もっとひどかったかもしれない。

何ヶ月もかけて、徹夜までして作った作品が、たった数秒で価値を否定される。

それも、全く別の視点から。

私の意図は微塵も伝わらず、むしろ「意味不明」という烙印を押されたような感覚。

あの時味わった、全身の力が抜けるような、そして同時に「ああ、これが世の中か」と悟ったような、不思議な感覚。

美大を出てよかったな、と心底思うのは、そういう「制作したものに対して評価が無い(あるいは否定される)事」に、早くから慣れておけたことかもしれない。

美大生の頃って、みんなが自分の作品に命をかけている。

文字通り、自分の魂を削って作品を作る。

だから、それが認められないと、自分の存在そのものが否定されたように感じる。

泣いたり、怒ったり、絶望したり、そんな感情のジェットコースターに、頻繁に乗せられる。

でも、そういう経験を繰り返すうちに、だんだん慣れていくんだよね。

最初は傷ついても、そのうち「まあ、そういう見方もあるよね」って、少し引いた視点で見られるようになる。

これは、美大あるあるだと思うんだけど、展示の講評会とかで、自分の作品がボロクソに言われている隣で、他の学生の作品が絶賛されてたりする。

でも、自分は「いや、あっちの作品だって、そんなに言うほどじゃ…」とか思ったりするわけ。

で、逆もまた然り。

「この作品、教授に褒められたけど、自分としてはイマイチなんだよな」みたいなこと、しょっちゅうだった。

評価って、結局は相対的なもので、見る人の主観が大きく影響する。

そのことを、身をもって知れたのは、本当に財産だと思う。

だって、社会に出たら、もっと容赦ない「評価」が待っている。

というか、評価すらされないことだって山ほどある。

出した企画が通らない。

書いた文章が誰にも読まれない。

作ったものが誰にも見向きもされない。

そんな時、美大で培った「まあ、そういうこともあるよね」精神が、ものすごく役立つんだ。

心が折れそうになっても、「どうせ評価なんて、人の気まぐれだし」って、いい意味で諦められる。

これは、他者否定に慣れる、ということでもあるし、同時に自己否定を乗り越える術でもある。

私は今、在宅で文章を書く仕事をしているけれど、これもまた、評価と無縁ではいられない仕事だ。

書いたものがクライアントさんの意図と違ったり、読者の方から「わかりにくい」なんて感想をもらったりすることも、正直ある。

そういう時、やっぱり最初はちょっと凹む。

でも、そこで「私の書くものなんて、全部ダメなんだ!

」って自己否定の沼にはまらないで済むのは、あの頃の経験があるからだと思う。

「そうか、この表現は伝わりにくかったか。

じゃあ、次はこうしてみよう」とか、「まあ、私が一生懸命書いたものが、誰かの琴線に触れないことも、そりゃあるよね」って、わりと冷静に受け止められる。

これは、美大でさんざん自分の作品を否定され尽くした経験から得た、ある種の鈍感力なのかもしれない。

鈍感力って、ネガティブな言葉に聞こえるけど、生きていく上では、すごく大事な力だと思う。

繊細すぎると、毎日が生きづらくなるから。

そういえば、この前、スーパーで特売になっていたキャベツを買って帰って、冷蔵庫に入れたら、翌日にはもう、しなしなになってたことがあった。

その時も「あーあ、私の見る目がなかったんだな」って思ったんだけど、そこで「私はキャベツすらちゃんと選べないダメ人間だ!

」なんて思わなかったのは、やっぱり鈍感力のおかげだ。

いや、キャベツのチョイスと作品の評価を同列に語るなよ、って自分でも思うけど。

でも、そういう些細なことでも、いちいち心をすり減らさなくて済むようになったのは、確実に成長だと思うんだ。

話が横道にそれまくったけど、結局、延滞金三百円の件にしても、そうだ。

私は「返却期限を過ぎた本」という、私のミスが生んだ「作品」に対して、三百円という「評価」を下されたわけだ。

それが、図書館という公的な機関によるものだから、異議を唱える余地もない。

美大の講評会で教授に一蹴された時と、なんら本質は変わらないのだ。

そこで「なんて私はだらしないんだ!

」と自己否定に陥りそうになったけれど、ふと、美大時代のことを思い出して、こう思った。

「まあ、そういう日もあるよね。

次からは気をつけよう」。

猫たちは相変わらず、私の膝の上で気持ちよさそうに眠っている。

モカは私のパジャマの毛玉を執拗に舐めていて、ココアはへそ天で完全に無防備だ。

彼らは、私が延滞金を払ったことなんて、これっぽっちも気にしていないだろう。

彼らの世界では、私がごはんをくれること、おやつをくれること、撫でてくれること、それだけが評価の基準だ。

そして、その評価基準は、彼らが望むものであれば、どんな些細なことでも満点になる。

彼らの評価基準は、なんてシンプルで優しいんだろう。

在宅ワーカーとして、猫たちと暮らす日々は、本当に小さな出来事の連続だ。

今日のお昼ごはんは何にしようか、猫の爪切りはいつにしようか、届いた段ボールを潰すのは面倒だな、とか。

そんな些細なことの積み重ねの中で、私は時々、あの美大時代に培った「評価されないことへの慣れ」が、どれほど私の心を軽くしているかを感じる。

延滞金三百円で少し気分が落ち込んだ午後も、猫たちがくれる温もりと、あの頃のちょっとした諦めが、結局は私を救ってくれる。

まあ、でも、次の図書館の本は、ちゃんと期限内に返そう。

三百円は、やっぱり痛い。

でも、その痛みが、次への教訓になるのなら、それはそれでアリなのかもしれない。

そう思いながら、私は猫たちの頭を撫でた。

彼らはゴロゴロと喉を鳴らして、私の指に顔を擦り付ける。

この無条件の肯定が、私の日常を支えている。

今日も、評価と否定の波を乗り越え、私は猫たちと生きていく。

きっと、明日も。

そして、また小さな失敗をして、また一つ、自分を許すのだろう。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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