📝 この記事のポイント
- 金曜の夜、僕の夕食当番は回転寿司で手抜きと決めていた。
- 正直、皿の上で回る寿司にすら、自分で握るよりはるかにマシだと感謝しかない。
- カウンター席に座り、タブレットを操作しようとしたその時、隣のレーンに流れてきた大トロに目を奪われた。
金曜の夜、僕の夕食当番は回転寿司で手抜きと決めていた。
平日の共働きは戦場だ。
妻と僕、交互に夕食の責任を背負っている。
この日は僕の番。
正直、皿の上で回る寿司にすら、自分で握るよりはるかにマシだと感謝しかない。
カウンター席に座り、タブレットを操作しようとしたその時、隣のレーンに流れてきた大トロに目を奪われた。
あれ?
今、自分が何を注文しようとしてたんだっけ?
まったく、集中力がないと妻によく言われるのが、こういうところだ。
結局、隣の美味しそうな皿につられて、自分の好みとは違うネタをいくつか注文してしまった。
こういう「隣の芝生は青い」じゃないけど、「隣の皿は美味そう」な現象って、人生のそこかしこにあるよな、とぼんやり考えていた。
つい先日も、スーパーのレジで列に並んでいると、隣のレジのおばちゃんが店員さんと楽しそうに世間話をしているのが聞こえてきた。
「あら、この間はありがとうね、息子さんが見つけてくれて助かったわ」なんて、そこそこ深いご近所付き合いの会話。
こっちはただ黙って、買った食材をエコバッグに詰めるだけ。
店員さんとの間に流れる、あの淀みない空気感がちょっと羨ましかったりする。
うちの近所付き合いなんて、挨拶と、あとはせいぜい回覧板を回すくらいのもんだ。
もっとも、その「隣の皿」が本当に美味しいのかどうかは、実際に食べてみないとわからないわけで。
以前、近所の奥さんが「あのクリーニング屋さん、仕上がりが全然違うのよ!
」と熱弁していたから、試しに持って行ってみたら、僕のシャツの襟元だけいつもよりパリッとしすぎて、ちょっと首が締め付けられるような違和感があったりした。
僕にはいつものクリーニング屋の、ほどほどにソフトな仕上がりの方が合っていたらしい。
つまり、人には人の「ちょうどいい」がある、ってことなんだろう。
そんなことを考えていたら、ふと中学時代の出来事を思い出した。
思春期特有の、なんだかモヤモヤする時期。
特定の誰かにいじめられている、という明確なものじゃない。
でも、なんとなく無視されたり、グループから外されたり、陰口を叩かれているような気配を感じたり。
確証はないけど、胸の奥がざわつく毎日。
僕は思い切って、母に相談してみたんだ。
「ねえ、僕、いじめられてるのかな?
」と、不安げに。
すると母は、僕の顔をじっと見て、次の瞬間、まさかの鼻で笑った。
「ふふっ、何言ってるのよ。
ほっといて本でも読んでたら?
」と、一言。
僕の期待は、完全に裏切られた。
てっきり、「あら、大変だったわね」「先生に相談してみようか」とか、優しく慰めてくれるかと思っていたのに。
「ほっといて」って。
当時、僕はそれがすごくショックで、母は僕の気持ちを全然わかってくれないんだ、と憤慨したものだ。
本を読むなんて、そんな現実逃避みたいなこと、できるわけないだろ、って。
結局、それ以上は何も相談しなかった。
でも、今になって思うと、あの時の母の「ほっといて」は、意外と悪くない、というか、むしろものすごく的確なアドバイスだったのかもしれない。
あの頃のモヤモヤって、相手がどうこうというよりも、自分がその状況にどう反応するか、どう捉えるかで大きく変わるものだったりする。
相手の言動一つ一つに過剰に反応して、感情を揺さぶられるのは、結局自分のエネルギーを消耗するだけだ。
誰かの些細な言葉や態度に一喜一憂するより、自分の世界に没頭する。
本を読むでも、絵を描くでも、ゲームに夢中になるでも、何でもいい。
自分軸で生きることを、あの言葉は教えてくれていたのかもしれない。
実際、あの後、僕は母の言葉に少しだけ反発しながらも、結局は自分なりの方法で「ほっとく」ことを覚えた気がする。
休み時間、一人で図書館に行って小説を読んだり、図書室の隅でひっそり好きな漫画を読み漁ったり。
最初は寂しい気持ちもあったけど、だんだんと、自分の世界に没頭する心地よさを知った。
周りのざわめきや、自分への評価を気にしない時間。
それは、僕にとって一種の避難場所であり、自分を守るための術でもあったんだ。
大人になって、近所付き合いとか、職場での人間関係とか、やっぱり「隣のレーンの寿司」問題は常に存在する。
挨拶はするけど、あまり踏み込みすぎない方がいいのかな、とか。
あの人はすごく社交的で、誰とでもすぐに打ち解けてるけど、僕もそうあるべきなのかな、とか。
つい、周りの基準に自分を合わせようとして、しんどくなることもある。
でも、そういう時って、結局「ほっとく」のが一番だったりするんだよね。
近所に住む山田さんは、町内会のイベントに積極的に参加していて、いつも笑顔で声をかけてくれる。
でも、僕はちょっと人見知りだし、休日は家でゆっくりしたい派。
だから、全てのイベントに参加するわけじゃない。
でも、それでもいいんだ、と最近は思えるようになった。
無理して山田さんのように振る舞おうとするのではなく、僕なりのペースで、僕なりの距離感で、挨拶を交わす。
それだけで十分、心地よい関係が築けることもある。
人生って、そういうものなんだろう。
期待通りの展開ばかりじゃない。
むしろ、裏切られることの方が多いかもしれない。
母の言葉のように、求めていた優しさとは違う、突き放すような言葉をかけられることもある。
でも、その一見冷たい言葉や、回り道の先に、意外なヒントや、自分にとって本当に必要な道筋が見つかったりする。
回転寿司で隣の皿につられて注文した寿司が、意外と美味しかったりするみたいにね。
結局、僕が本当に食べたかったのは、回ってくる大トロではなく、自分のタブレットで注文する、いつものサーモンだったりするんだけど。
それでも、たまには隣の皿に手を伸ばしてみるのも、悪くない。
そして、やっぱり自分のペースで、自分の好きなものを食べるのが一番だと気づく。
その繰り返しが、きっと僕たちの日常なんだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
📚 あわせて読みたい


コメント