📝 この記事のポイント
- 帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。
- 鍵を差し込もうとして、「あれ? 」となる。
- いつもの手触りと違うし、鍵穴の位置も微妙にずれている。
帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。
鍵を差し込もうとして、「あれ?
」となる。
いつもの手触りと違うし、鍵穴の位置も微妙にずれている。
隣の部屋だ。
まったく、今日は朝からぼんやりしているなあと苦笑し、ようやく自分の部屋のドアを開けた。
郵便受けを確認すると、見慣れない封筒が一つ。
差出人は「最高裁判所」。
え、最高裁?
私、何かやらかしたっけ?
脳内で過去の悪行リストが瞬時に、しかし不毛に駆け巡る。
信号無視、公園で釣り禁止の看板を見落として小魚を釣った件、図書館の本を数日延滞したこと、まさかあの件か?
いや、どれも最高裁案件ではないだろう。
恐る恐る開封すると、中にはA4用紙で3枚もの丁寧な書面が。
何かの訴訟に巻き込まれたのかと身構えて読み進めると、どうやら私からの「ご意見」に対する回答らしい。
覚えのない「ご意見」に首を傾げ、さらに読み込んでいくと、どうも私が以前、最高裁のウェブサイトから問い合わせフォームで送ったらしい「ご意見」について、非常に丁寧に、そして品位をもって「それは当裁判所の管轄ではありません」という主旨が、回りくどく、しかし明確に、そしてまさかの3ページにもわたって書かれていたのだ。
「光り輝く令和原告殿」とでも名付けられそうな、この丁寧すぎる回答に、私はただただ恐縮するばかりだった。
私が送った「ご意見」の内容は、どうやら「近所の河川敷にある公園のベンチが古くて座り心地が悪い。
もっと新しいベンチに交換すべきではないか」という、地方自治体か公園管理事務所にでも送るべき、取るに足らない、あまりにも日常的な、そして最高裁とは一切関係のない内容だった。
そういえば、先日散歩中にベンチの板が腐っているのを見て、ついカッとなって、どこか「偉いところ」に文句を言ってやろうと、勢いでフォームに記入した記憶がおぼろげながら蘇る。
その時、最高裁のウェブサイトにたどり着いた経緯は全く思い出せない。
たぶん、「最高」と検索した時に、一番上に表示されたのが最高裁だったのだろう。
「最高」という言葉に、一番高いところにある組織だという漠然とした期待を抱き、ろくに確認もせず、まるで駄々をこねる子どものように、思いの丈をぶつけたらしい。
自分のうっかり具合に呆れつつ、最高裁の方々が、このなんとも牧歌的な「ご意見」に対して、3ページもの書面を用意してくれたことに、感謝と申し訳なさで胸がいっぱいになった。
この件以来、私の日常ルーティンには小さな変化が訪れた。
以前は、朝起きて、カレンダーの予定をざっと確認し、熱いお茶を淹れたら、すぐに庭に出て植木の水やり。
それから愛用のラジオをつけ、他愛もないニュースや天気予報を聞きながら、トーストを焼く。
焦げ付かないように見張るのが、毎朝の小さな任務だった。
食事が終われば、散歩に出かけるか、釣りの仕掛け作りに没頭するか。
そんな気ままな日々だった。
約束と呼べるものも、週に一度の妻との買い物くらいで、それも「午後からね」くらいのゆるいもの。
しかし、最高裁からの「丁寧すぎるお手紙」は、私のゆるい日常に、ちょっぴり引き締まった空気をもたらしたのだ。
まず、何か疑問に思ったり、不満を感じたりした時に、すぐに「偉いところ」に連絡する前に、一旦立ち止まるようになった。
「これは本当に、この機関に送るべきことなのか?
」と自問自答する時間が増えたのだ。
例えば、スーパーで買った卵の賞味期限がいつもより短かった時、「これは農林水産省に報告すべきか?
」と一瞬頭をよぎるが、すぐに「いや、これはスーパーの店長に言うべきだ」と冷静な判断ができるようになった。
以前なら、衝動的に「農林水産省」と検索窓に打ち込んでいたかもしれない。
恐ろしいことだ。
また、毎日の散歩中、道の端に捨てられた空き缶や、放置された自転車を見つけると、以前は「まったく、だらしないやつだ」とぼんやり思うだけだったのが、「これは市役所の環境課か、道路維持課に連絡すべきだろうか?
いや、警察か?
いや、でも、最高裁の皆さんにご迷惑をかけるわけにはいかない」と、脳内で勝手に会議が始まるようになった。
そして結局、「まあ、そのうち誰かが片付けるだろう」と、事なかれ主義に落ち着くのが常なのだが、この思考のプロセス自体が、私にとっては大きな変化だった。
この新しい習慣は、最初は戸惑いの連続だった。
特に、何かを「提出」したり「連絡」したりする際、宛先を間違えるまいと、何度も確認するようになったからだ。
以前は、銀行の書類を出す時でさえ、記入漏れがないか確認する程度で、提出先なんていちいち気にしていなかった。
だが、最高裁の件以来、例えば、自治会の回覧板を隣の家に持っていく時でさえ、「本当にこの家で合っているか?
」と、玄関の表札を3度見するようになった。
一度など、隣の隣の家のおばあさんに回覧板を渡そうとして、インターホンを押す直前で間違いに気づき、冷や汗をかいたこともある。
おばあさんがドアを開けていたら、私は何を説明すればよかったのだろう。
「間違えました」で済まない気がする。
そして、この「確認癖」は、私の趣味である釣りにも影響を与え始めた。
釣り場に着いて、竿を準備する時、以前は「まあ、大丈夫だろう」と適当に仕掛けをセットしていたのが、「このリール、この竿に合っているか?
」「このラインの太さで、今日の魚に対応できるのか?
」と、まるで初めて釣りをする人のように、一つ一つの道具を吟味するようになった。
おかげで、仕掛けを作るのに以前の倍の時間がかかるようになり、日の出を拝むつもりが、すっかり太陽が高くなってからようやく第一投、なんてことも珍しくなくなった。
しかし、この戸惑いも、次第に私の一部として馴染んでいった。
何事も確認する、という新しいルーティンが、私という人間を少しだけ、いや、ほんの少しだけ、まともな人間に変えてくれたのかもしれない。
少なくとも、もう最高裁に公園のベンチに関する「ご意見」を送るような真似はしないだろう。
いや、しないはずだ。
ある日のこと、妻が「そういえば、この前頼んでた電気屋さんの修理、いつ来るんだっけ?
」と聞いてきた。
私はカレンダーを確認し、「ああ、来週の火曜日だったかな。
午後の早い時間って言ってた気がする」と答えた。
以前の私なら、「たぶん来週の火曜日くらい」と、もっと曖昧な答え方をしていただろう。
ところが、この日は違った。
私はすぐに電話で電気屋さんに確認した。
「火曜日の午後2時から3時の間ですね」と正確な返事が返ってきた。
妻は少し驚いた顔をしていたが、すぐに「あら、ちゃんと確認するようになったのね。
偉いわ」と褒めてくれた。
なんだか、子どもの頃に宿題をきちんとやって褒められたような、くすぐったい気持ちになった。
そして、最高裁からの丁寧な返信が来てから数ヶ月後。
私はまた、郵便受けで一つ見慣れない封筒を見つけた。
差出人は「〇〇市役所」。
今度こそ、何かやらかしたかと身構えたが、開封してみると、これもまた丁寧な書面だった。
どうやら、私が先日、公園で拾った財布を最寄りの交番に届けた件について、持ち主が無事に見つかり、感謝の意を伝えるものだった。
私自身、財布を拾ったことすら、すっかり忘れていたのだが、その時も「交番に届けるべきか、それとも市役所の福祉課か?
」と一瞬迷った記憶がおぼろげながら蘇る。
結局、その時は「近くの交番が一番だろう」という、至極まっとうな判断を下していた。
あの最高裁からの「丁寧すぎるお手紙」は、私のうっかり度を測る、と同時に、私の日常にささやかな「確認」という名のスパイスを加えてくれたようだ。
以前よりも少しだけ、物事を注意深く見るようになったし、行動する前によく考えるようになった。
それが良いことなのかどうかは、まだよく分からない。
ただ、少なくとも、これ以上最高裁に迷惑をかけることはないだろう、と、私は勝手に安堵している。
そして、もしまた、どこか「偉いところ」に「ご意見」を送りたくなった時は、必ず宛先を3度確認し、それでも不安なら、まずは妻に相談することにしよう。
それが、今の私の、新しいルーティンなのだ。
きっと、それが一番安全な道だろう。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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