📝 この記事のポイント
- 自販機で買ったコーヒーが想像と違う味で、一口で後悔した。
- しかも微糖とかじゃなくて、がっつり甘いやつ。
- 口の中に残る甘ったるさが、梅雨入り前のどんよりした空気をさらに重くする。
自販機で買ったコーヒーが想像と違う味で、一口で後悔した。
あ、これ、ブラックじゃない。
カフェラテか。
甘い。
しかも微糖とかじゃなくて、がっつり甘いやつ。
口の中に残る甘ったるさが、梅雨入り前のどんよりした空気をさらに重くする。
もう一口、と手にとって、やっぱり無理、と諦めた。
こういう日もある。
いや、こういう日ばっかりかもしれない。
パート先の休憩室で、冷え切ったカフェラテを前にため息をつく。
今日の午後シフトも、なんだか色々ありそうだ。
休憩室の窓から見える空は、いつ降ってもおかしくない灰色の雲でいっぱい。
ああ、また洗濯物が乾かない日々が始まるのか。
朝干してきた息子の中学のジャージ、なんとか持ちこたえてくれ。
生乾きの匂いだけは、絶対に避けたい。
あれ、本当に気分が落ち込む。
その日は、先輩社員の山田さんが、やけにハイテンションだった。
山田さんは50代半ば。
いつもは「ああ、疲れた」「腰が痛い」が口癖なのに、今日は目がキラキラしている。
「奥さん、見てこれ!
」
そう言って、自分の席から大きな声を出す。
奥さん、というのは私だ。
なぜか私は、パート先の全員から「奥さん」と呼ばれている。
最初は戸惑ったけど、もう慣れた。
なんなら自分でも「奥さん」と名乗りそうになる。
山田さんが見せてきたのは、仕事用の古いノートパソコンの画面だった。
正直、液晶がかなり黄ばんでいて、何が映っているのか一瞬わからなかった。
「これ、すごいサービスなんだよ!
」
画面を覗き込むと、どうやら何かテキストが表示されている。
チャット画面みたいなやつだ。
「最近見つけたんだけどさ、ここに顧客の情報とか、会議の議事録とか、いっぱい読ませるじゃん?
そうすると、いい感じにまとめてくれるんだよ。
この前なんか、うちの部署の営業戦略、これに相談したら、目から鱗のアドバイスくれたんだ!
山田さんの言葉に、一瞬、休憩室の空気が止まった気がした。
顧客の情報?
会議の議事録?
え、それって、個人情報とか、社外秘の情報とか、そういうやつでは?
私の脳内でサイレンが鳴り響く。
ピーポーピーポー。
いや、ゴーンゴーン。
警報だ。
「え、それ、いいんですか?
」
思わず声が出た。
いや、いいわけないだろう。
山田さんは、キョトンとした顔で私を見る。
「何が?
だって、すごいんだよ。
俺の仕事、半分くらいこれに任せられるんじゃないかと思ってさ。
効率爆上がり!
」
得意げに胸を張る山田さん。
いやいやいや、違う違う。
私は、ゆっくりと、できるだけ刺激しないように、言葉を選んだ。
「あの、山田さん。
それって、もしかして、会社の情報とか、他のお客さんの情報とか、その、外に出ちゃってる、ってことにはならないですかね?
」
山田さんの顔から、だんだん血の気が引いていく。
「え、外って?
これ、俺のパソコンの中だよ?
大丈夫だよ、誰も見てないから」
いやいやいや、そういう問題じゃない。
このサービスがどういうものかは、私だって知っている。
というか、中学生の息子が教えてくれた。
学校で「情報モラル」の授業があったとかで、やたらと詳しいのだ。
「個人情報はダメ、絶対にダメ。
会社の秘密もダメ。
入力したデータは、結局、どこかの誰かが使ってるかもしれないんだから」
息子は、食卓で熱く語っていた。
私の目の前には、食欲が止まらない食べ盛りの息子が、唐揚げをすごい勢いで頬張っていた。
その話を思い出しながら、私は山田さんの顔をじっと見た。
山田さんの顔色は、さっきの得意げな顔から一変して、真っ青になっている。
「え、マジで?
やばいじゃん、俺、昨日もあのクレーム対応のデータとか、新しい企画書とか、全部読ませたんだけど…」
もう、なんて言ったらいいのか。
ネタですよね、と聞くのも失礼なレベルだ。
私は、ただ、うん、うん、と頷くことしかできなかった。
うちの息子は、ああいう新しいものに触れるのが本当に早い。
私が「スマホって便利だね」なんてやっと言い始めた頃には、もう「お母さん、それもう古いから」みたいな顔をしている。
新しいゲーム機のコントローラーの操作方法とか、私が理解するのに半日かかるようなことを、彼はものの数分でマスターする。
いや、私だって、昔はそうだった気がする。
ファミコンの新しいソフトを買ってきて、説明書も読まずにすぐに遊び始めた、あの頃の私。
どこに行ったんだろう、あの反射神経。
でも、山田さんの話を聞くと、世代間のギャップって、そういう部分だけじゃないんだな、としみじみ思う。
私だって、ネットショッピングでクレジットカード情報を入力する時は、毎回ドキドキする。
ちゃんと暗号化されてる?
大丈夫?
個人情報、抜かれない?
そういう心配性な部分が、私にはある。
でも、山田さんは、そういう心配を一切しないんだろうな。
新しい、便利、すごい!
と思ったら、何も考えずに飛び込んじゃうタイプ。
それが、山田さんの良いところでもあるんだけど。
猪突猛進型。
昔、山田さんと二人で営業に行った時も、そうだった。
新製品の説明をするのに、山田さん、興奮しすぎて、まだ開発途中の、社外秘の情報をペラペラ喋りそうになってた。
「あ、これはまだ内緒です!
」って私が慌てて止めに入ったんだっけ。
あの時と、何も変わってない。
山田さん、そういう人なんだ。
結局、山田さんはその日、午後の仕事を上の空で過ごし、休憩時間もずっと「どうしよう…」と呟いていた。
私は、隣の席で、冷え切ったカフェラテを一口飲んだ。
やっぱり甘い。
この甘さが、今日の山田さんの焦り具合と、妙にマッチしている気がした。
ああ、なんて日だ。
私も、もっと気を引き締めないと。
家に帰って、まずやったことは、洗濯物を抱えてコインランドリーに直行することだった。
梅雨入り前の湿気は、油断するとすぐに洗濯物を生乾きにする。
これはもう、経験則だ。
コインランドリーの乾燥機の前で、私は中学生の息子に今日の山田さんの話をしてみた。
「ねえ、聞いてよ。
パート先の山田さんって人がさ…」
息子は、私の話を聞きながら、うんうん、と頷いている。
「それ、ヤバいね。
普通に情報漏洩じゃん。
っていうか、会社のセキュリティ的にありえない。
学校で習ったもん」
ほら見ろ。
やっぱり息子はわかっている。
「でもさ、お母さんも気をつけなよ。
なんか変なサイトとか、クリックしちゃダメだからね。
最近、お母さんのスマホに迷惑メール多くない?
」
息子に言われて、ドキッとした。
確かに、最近、私のスマホには「あなたの口座が凍結されました」「未払い料金があります」といった、いかにも怪しいメールが頻繁に届く。
私はいつも即削除しているつもりだけど、もしかしたら、どこかで怪しいリンクを踏んでいるのかもしれない。
「うるさいわね、大丈夫よ」
強がって言ってみるけど、心の中では冷や汗が流れていた。
コインランドリーの乾燥機がゴーゴーと音を立てる。
熱風が、洗濯物の湿気を吸い取り、フワフワに仕上げてくれる。
この熱い風みたいに、世の中の新しいツールって、便利だけど、使い方を間違えると火傷するんだな。
山田さんも、私も、きっと完璧じゃない。
私も、家計簿アプリに銀行口座とクレジットカードを紐付けているけど、それだって、本当に安全なのか?
もしかしたら、私だって、知らず知らずのうちに、危ない橋を渡っているのかもしれない。
新しいものに飛びつく山田さんと、慎重すぎるがゆえに情報弱者になりがちな私。
どっちもどっち、なのかもしれない。
乾燥機から取り出した洗濯物は、ホカホカで、いい匂いがする。
これなら、明日も気持ちよく仕事に行ける。
いや、仕事は、気持ちよく行けるけど、山田さんの件、どうなるんだろう。
明日、休憩室で、またあの甘ったるいコーヒーを飲むことになったら、今度はブラックを買おう。
そして、山田さんに、こっそり息子が教えてくれた「情報モラル」の話をしよう。
いや、やっぱりやめとこうかな。
説教じみてるって言われそう。
ただ、温かいブラックコーヒーを差し入れて、「山田さん、深呼吸しましょう」って言ってみようか。
いや、それもなんか違うか。
ああ、明日もまた、何かが起こる予感しかしない。
梅雨のジメジメした空気は、心までモヤモヤさせる。
とりあえず、今は、フワフワのバスタオルに顔を埋めて、深呼吸してみることにした。
うん、いい匂い。
これだけで、ちょっとだけ気分が上向く。
人生、そういう小さなことからだ。
たぶん。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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