コンビニの湯気とラッコ、そして黄金の誘惑

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📝 この記事のポイント

  • 近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
  • まるで真夏の湯滝行にでも挑む修行僧のような、尋常じゃない熱気だ。
  • 透明な弁当の蓋が真っ白に曇り、その向こうでぼんやりと浮かぶ鶏肉のテリが、まるで白煙の中から現れた幻獣のようだ。

近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。

いや、すごいってレベルじゃない。

まるで真夏の湯滝行にでも挑む修行僧のような、尋常じゃない熱気だ。

透明な弁当の蓋が真っ白に曇り、その向こうでぼんやりと浮かぶ鶏肉のテリが、まるで白煙の中から現れた幻獣のようだ。

普段、筋トレ終わりに腹ペコで立ち寄るこの店では、いつも通り手際よくサッと温めてくれるベテランのおばちゃんが鉄板なんだけど、今日は新人さんかな。

なんとも初々しい手つきで、マイクロウェーブのボタンを何度も確認している。

きっと、マニュアル通りに「温めますか?

」と聞かれた時に、私が「はい」と答えたからには、最高の熱々を提供せねば!

という使命感に燃えているに違いない。

その熱意、嫌いじゃない。

むしろ、その湯気を通して、少しばかり店員さんの緊張と、私の胃袋への期待がシンクロしたような気がした。

家に帰り、食卓に着く。

熱々を通り越して、もはや「激アツ」と化した鶏肉と卵の親子丼を前に、箸を持つ手が少し震える。

一口食べると、口の中が火傷寸前。

慌てて冷たい麦茶で流し込み、フーッと一息。

これだよ、これ。

この、ちょっとしたハプニングが日常のスパイスになるんだ。

完璧すぎないからこそ、記憶に残る。

そういえば、この親子丼、母が作ったそれとはまた違う、独特の甘辛いタレの味がする。

実家暮らしの特権は、毎日温かいご飯が食べられることだけど、たまにこういうコンビニの味が恋しくなるのも事実。

母の料理は、いつも愛情たっぷりで美味しい。

でも、たまには自分で選んだ「今日の気分」の味を、誰にも気兼ねなく、好きな時に好きなだけ食べたい。

そういう衝動って、誰にでもあるんじゃないかな。

特に、夕食時に部屋で漫画を読みながら、とかね。

この親子丼を食べる前に、食卓の隅っこに置いてあったものに目が留まった。

先日、駅前のショッピングモールで衝動的に回したガチャガチャでゲットした、手のひらサイズのラッコのフィギュアだ。

温泉につかっているポーズで、頭にはタオルを乗せている。

なんとも言えない脱力感と、つぶらな瞳が可愛らしくて、ついつい手が伸びてしまった。

筋トレで追い込んだ後の疲れた心に、このラッコのゆるさが沁みわたったんだ。

で、これを見せたくて、実家に遊びに来た友人に見せようと思ったんだけど、その時の状況がちょっと面白かったんだよね。

友人が遊びに来て、リビングでダラダラと漫画を読んでいた時だ。

私はキッチンの冷蔵庫から冷たいお茶を取り出しながら、「おーい、これ見てくれよ!

最近ゲットしたラッコ。

めちゃくちゃ可愛いんだぜ!

」と、ガチャガチャの戦利品を差し出した。

友人は「お、どれどれ?

」と、漫画から顔を上げ、私の手元に視線を向けた。

その瞬間、「あ」と、私は小さく声を漏らした。

友人の視線が、私が差し出したラッコを通り越し、その背後にあったものに吸い寄せられているのが分かったからだ。

そう、そのラッコの背後には、私の部屋のドアに貼ってあるポスターがあったのだ。

それは、私が最近ドハマりしている漫画『ゴールデンカムイ』の、登場人物である尾形百之助のグラビアポスター。

風呂上がりのような上半身裸の尾形が、色気と狂気をはらんだ目でこちらを見つめている。

いや、別に隠していたわけじゃない。

部屋のドアに普通に貼ってある、ただのポスターだ。

でも、ラッコを見せようとしたその文脈で、急に存在感を放ち始めたのだ。

友人の顔に、一瞬「フッ」と笑みが浮かんだのが見えた。

口元はニヤついているものの、彼は何も言わない。

ただ、尾形の目と、私の手元のラッコを交互に見ている。

その無言の視線が、まるで「なるほどね」と語っているようだった。

まるで、ブランド物のバッグを見せる時に、つい背景に映り込んでしまう高級ホテルの一室や、さりげなく置かれたワイングラスのような。

いや、もっと生々しい。

なんというか、本命とは違うけど、実はこっちがメインなんじゃね?

と思わせるような、無意識の自己開示。

ラッコという可愛いマスコットを見せたいという純粋な気持ちと、その裏に隠された「俺、尾形好きなんだよね」というオタク心の露呈。

そのコントラストが、なんとも言えず滑稽だった。

友人はついに、「…で、ラッコは?

」と、ようやく言葉を発した。

しかし、彼の瞳はまだ、尾形をチラチラと見ている。

分かってるよ、君の言いたいことは。

ラッコは前座だってことくらい、と。

この時、私はハッとしたんだ。

人は何かを見せるとき、本当に見せたいものは、もしかしたらその「見せたいもの」の背景にあるのかもしれないって。

例えば、凝った手料理の写真を投稿する時、実はそのお皿の下に敷かれた、ちょっといいランチョンマットを見せたいとか。

あるいは、頑張って作った筋トレメニューの記録をシェアする時、実はその横にさりげなく置かれた、限定コラボのプロテインシェイカーに気づいてほしいとか。

そんな、ちょっとした「どうだ?

」という心の声が、無意識のうちに滲み出ているんじゃないかな。

もちろん、純粋にラッコの可愛さを見せたい気持ちもあった。

でも、尾形のポスターがそこにあったことで、私の「好き」の幅というか、人間性の複雑さが、図らずも友人に伝わってしまったわけだ。

それはそれで、別に悪いことではない。

むしろ、親近感が湧いたんじゃないかな、とポジティブに捉えることにした。

だって、可愛いものも好きだし、推しには熱くなっちゃうし、そういう人間臭さって、みんな持ってるもんじゃない?

思えば、コンビニで弁当を温めすぎた店員さんの湯気もそうだ。

あの湯気は、新人さんの「きちんと仕事をこなしたい」という真面目な気持ちが溢れ出したものだった。

完璧じゃなくても、その奥にある「一生懸命さ」が伝わるからこそ、人は共感したり、ちょっとクスッとしたりする。

それは、ラッコのフィギュアを見せようとして、無意識に尾形のポスターを背景に据えてしまった私の「素」の部分と、どこか似ている気がするんだ。

きっと、みんなも心当たりがあるはずだ。

何気ない日常の中で、本当はこっちを見てほしいのに、なぜか別のものが注目されてしまったり、見せたいものとは違う側面が露呈してしまったり。

でも、それでいいんだ。

むしろ、そういうちょっとした「はみ出し」が、人間らしさであり、愛嬌だったりするんじゃないか。

完璧なプレゼンテーションよりも、ちょっとしたドジや失敗の方が、なぜか記憶に残るし、その人の魅力を際立たせることだってある。

私は今日も、熱々の親子丼をかきこみながら、食卓のラッコと、部屋のドアの尾形を交互に見た。

どちらも私の一部。

そして、どちらも私の日常を彩る、大切な存在だ。

コンビニの湯気は、もうすっかり冷めてしまったけれど、あの時の店員さんの熱意と、友人が見せた「なるほどね」という顔は、しばらく忘れられそうにない。

次の筋トレ後も、またコンビニで、今度はどんな「熱意」に出会えるのか、ちょっと楽しみだったりする。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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