電車での甘い罠と、じいじと孫の攻防戦

📝 この記事のポイント

  • 帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。
  • 最近はどうも、頭のネジが一本緩んでいるらしい。
  • 散歩帰りにスーパーに寄って、特売のミカンをカゴに入れ損ねたり、釣りに行くのに餌を忘れて出かけたり。

帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。

いつものことだ、と小さく溜息をつく。

最近はどうも、頭のネジが一本緩んでいるらしい。

散歩帰りにスーパーに寄って、特売のミカンをカゴに入れ損ねたり、釣りに行くのに餌を忘れて出かけたり。

そんな「うっかり」が、僕の定年後の日常に彩りを与えている、と言えば聞こえはいいけれど、単にボケが始まっているだけだろう。

特に大きな予定もない日々。

朝、決まった時間に起きて、庭の草木に水をやり、朝食を済ませたら、今日はどこを歩こうか、と地図を広げる。

午後は釣りの仕掛けを作ったり、読みかけの歴史小説を数ページ進めたり。

そんな僕の静かなルー「ティン」は、週に一度、孫娘が遊びに来る水曜日だけ、ガラリと様相を変える。

小学一年生の孫娘、ミサキは僕にとって、可愛くて仕方がない、まさに目の中に入れても痛くない存在だ。

とは言え、甘やかしすぎるのも教育上よろしくない、という女房の厳命があるので、僕なりにけじめをつけているつもり、なんだよね。

ミサキが来る日は、普段よりも二時間早く散歩に出て、ミサキの大好きな「たまごパン」を近所のパン屋さんで買う。

このパン屋さんは朝7時に開くのだけど、たまごパンは焼きたてを狙うなら7時半には行かないと売り切れてしまう。

以前、一度だけ寝坊して買いそびれたことがあって、その日のミサキのションボリ顔と言ったら。

あれはもう、僕のトラウマになっている。

だから水曜日の朝は、目覚まし時計を二つかけて、万全の体制で臨むのだ。

さて、そんなある水曜日のこと。

女房は趣味の陶芸教室で遅くなるというので、僕がミサキを学童保育に迎えに行き、そのまま連れて帰る段取りになっていた。

学童からの帰り道は、いつもならバスで一本なのだが、この日はちょっとした遠回りをして電車に乗ることにしたのだ。

ミサキが「じいじ、電車に乗りたい!

」と目を輝かせたからだ。

普段はバスばかりなので、たまには電車もいいだろう、と僕もご機嫌で頷いた。

学童を出る前には、もちろん「電車の中では静かにする」「走り回らない」「お菓子は食べない」という三つの約束をしっかり交わした。

ミサキも元気よく「はーい!

」と返事をして、僕と指切りまでしたんだから、大丈夫だろうと思っていた。

ところが、これがどうも、僕の甘い見通しだったらしい。

電車に揺られ、二つ目の駅を過ぎたあたりで、向かいの席に座っていたご婦人が、ニコニコとミサキに話しかけてきた。

「あら、可愛いお嬢ちゃん。

これ、おばあちゃんの手作りクッキーなんだけど、よかったらどうぞ」。

そう言って、小洒落た紙袋に入ったクッキーを差し出したのだ。

ミサキは目を丸くして、僕とクッキーを交互に見る。

僕は慌てて「いえいえ、滅相もございません。

お気持ちだけで十分です。

ありがとうございます」と、にこやかに、かつ毅然と固辞したつもりだった。

僕はこういう時、意外と頑固なのだ。

約束は守らせる、それが僕の教育方針(の一部)だからね。

しかし、そのご婦人も負けず劣らず頑固だった。

いや、頑固というよりは、押しが強い、と言うべきか。

「まあまあ、遠慮なさらないで。

お子さんには甘いものが一番よ」「せっかくのご縁ですもの、ほんの気持ちですから」「これも何かのご縁。

おひとつ、どうぞ」と、笑顔で、しかし着々と攻め立ててくる。

断れば断るほど、なんだか僕が悪者になっているような、そんな奇妙な錯覚に陥ってくる。

ミサキは僕の膝の上で、行儀よく座ってはいるものの、その視線は完全にクッキーに釘付けだ。

もう、僕の背後から「早く受け取ってよ!

」という無言の圧力がひしひしと伝わってくる。

結局、僕の「固辞」は、ものの3分と持たなかった。

「それでは、お言葉に甘えまして……」と、深々と頭を下げて、紙袋を受け取る羽目になったのだ。

紙袋を受け取った瞬間、ミサキの顔がパッと明るくなったのを見て、僕は「しまった!

」と内心で叫んだ。

ご婦人にお礼を言い、次の駅で慌てて電車を降りた。

プラットホームに降り立つと、ミサキは早速「じいじ、クッキー食べてもいい?

」と、満面の笑みで尋ねてくる。

僕は頭を抱えたくなった。

電車に乗る前の「お菓子は食べない」という約束は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

僕が受け取った時点で、その約束は僕自身の手によって破られたも同然だ。

しかし、ここで安易に食べさせてしまえば、今後の約束が全てフイになってしまう。

いや、それは大げさかもしれないが、少なくとも「じいじの約束は破っても大丈夫」とミサキに学習させてしまうことになる。

僕は、冷や汗をかきながら、なんとか説得を試みた。

「あのね、ミサキ。

これはお家に帰ってから、おやつに食べようね。

今食べちゃうと、晩ご飯が食べられなくなっちゃうかもしれないからね」「でも、今食べたい!

」「いけないよ。

じいじとの約束、なんて言ったっけ?

」「……お菓子は食べない、って」「そうでしょう?

これは電車の中で貰ったから、お家に着くまでお預けだよ」「やだー!

」「駄目ったら駄目!

」。

こうして、プラットホームの端で、僕とミサキの小さな攻防戦が始まったのだ。

ミサキは床に座り込んで、小さな体を反らせて泣き出した。

僕は周りの視線を感じながら、なんとも言えない敗北感に苛まれた。

約束を守らせるつもりが、僕自身が約束を破る原因を作り、さらに子供を泣かせるという、最悪の状況だ。

結局、僕はミサキを抱き上げて、半ば強引にバス停まで連れて行った。

バスの中では、ミサキは終始不機嫌な顔で、クッキーの入った紙袋をぎゅっと抱きしめていた。

僕はといえば、この一件で、いかに自分が優柔不断で、かつダメな人間であるかを痛感させられた。

ご婦人の厚意を無下にすることはできない、という気持ちと、孫に約束を守らせたい、という気持ちの板挟み。

結果、僕はどちらの立場も中途半端にこなし、そして孫を泣かせるという、最も避けたい結末を迎えたのだから、情けない限りだ。

家に帰り着くと、ミサキはまだクッキーを抱きしめていたが、さすがにもう泣いてはいなかった。

僕はそっと紙袋からクッキーを取り出し、ミサキに一つ渡した。

「はい、ミサキ。

よく我慢できたね。

偉かったね」そう言うと、ミサキはパッと笑顔になり、クッキーを一口かじった。

「おいしい!

」その屈託のない笑顔を見て、僕の胸には、なんとも言えない安堵と、そして小さな後悔が入り混じった感情が広がった。

これからは、もっと毅然と、そしてスマートに断る練習をしておこう。

いや、そもそも、余計な遠回りをせずに、さっさとバスに乗って帰るべきだったのかもしれない。

定年後の僕のルーティンに、また一つ、新たな教訓が加わった、そんな水曜日だった。

さて、明日はどこを散歩しようかな。

もちろん、たまごパンは買ってからね。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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