親の「産まなきゃよかった」を宅配便で思い出す話

📝 この記事のポイント

  • 宅配便の再配達を3回も逃して、ついに営業所まで取りに行った。
  • 午前中指定、14時〜16時、18時〜20時。
  • 全部「在宅してたはずなのに! 」という言い訳が虚しく響く。

宅配便の再配達を3回も逃して、ついに営業所まで取りに行った。

午前中指定、14時〜16時、18時〜20時。

全部「在宅してたはずなのに!

」という言い訳が虚しく響く。

最初の不在票は「え、嘘でしょ?

」、二枚目は「まさか」、三枚目に至っては最早笑うしかない。

玄関のインターホンが鳴るたびに「はーい!

」と勢いよく立ち上がったものの、そのほとんどが近所の猫の鳴き声だったり、風で揺れる庭の木の枝の音だったりするから困る。

結局、取りに行ったのは隣町の、駅からバスで15分ほどかかる小さな営業所。

夕暮れ時、西日に照らされた倉庫街を歩きながら、ああ、人生ってこういう「ちょっとした手間の積み重ね」なんだよなあ、なんてぼんやり考えていた。

営業所のカウンターで荷物を受け取り、店員さんにぺこりとお辞儀をして、ふと足元を見た。

そこには、小さな女の子が母親に手を引かれて立っている。

「ねえママ、あれ買ってよ、あれ!

」と、壁に貼られたお菓子の広告を指差している。

母親は「だめよ、今日はもうおやつ食べたでしょ」と諭すように言っているけれど、女の子は聞く耳を持たない。

しつこく「買ってー!

」と声を上げる姿は、まるで昔の自分を見ているようだった。

あの頃の私は、欲しいものがあるとき、親の顔色を伺うどころか、まるで戦国武将のように畳み掛けるタイプだった。

そして、その攻防の末に、たまに親から飛び出す言葉があった。

「あんたなんて産まなきゃよかった」。

あの言葉、今でも耳の奥に残っている。

当時小学三年生だった私は、その言葉を聞くたびに、口をあんぐり開けて固まっていた。

固まる時間はだいたい5秒くらい。

そして、次に思ったのは「言ってて恥ずかしくないのかな?

」だった。

もちろん、口には出さない。

言ったらもっと怒られるのは分かっていたから。

でも、心の中では確実に「これ、親としてどうなの?

」という冷静なツッコミが入っていた。

だって、産んだのはあんたでしょ、と。

私は「産んでくれ」なんて頼んでないし、なんなら記憶もないし、そもそも意思表示もできない赤ちゃんの頃からこの世にいるわけで。

その論理は、小学生なりに完璧だったと自負している。

むしろ、その言葉を吐くことで、親自身のプライドが傷つかないのかしら、なんて斜に構えていた節さえある。

あの頃の私は、きっと、今思えば可愛げのない子供だったのかもしれない。

例えば、晩ご飯の食卓。

母が作った肉じゃがが、なぜかその日はやたらと甘かった。

砂糖を入れすぎたのか、はたまたみりんの分量を間違えたのか。

一口食べると、口の中にガツンとくる甘み。

隣で父は無言で食べている。

私は「これ、甘すぎない?

」と正直に言った。

すると母は、「文句があるなら食べなくていい!

」と怒鳴り、ついには「あんたなんて産まなきゃよかった」が飛び出す。

私はその言葉を聞きながら、肉じゃがの甘さに負けないくらい、母の言葉も甘いな、なんて思っていた。

いや、甘いというか、思考停止状態というか。

だって、その言葉の次に続くのは、いつも決まって「もう知らない!

」という捨て台詞なのだ。

その度に「いや、知らないって言ったって、あんた以外に私の親はいないんだから、結局知ることになるでしょ」と心の中で突っ込んでいた。

今考えると、私もなかなか手強い子供だった。

そして、その日の夕食は、私が甘すぎると言った肉じゃがは食卓から下げられ、代わりに冷蔵庫にあった冷や奴と、納豆ご飯が出てきた。

父は肉じゃがを平らげ、私と母は別のものを食べる。

食卓には妙な空気が流れるものの、なぜかその時の冷や奴は、いつもより美味しく感じられた。

醤油をたっぷりかけて、ネギと生姜を乗せて、ズルズルとすする。

なんだか、この状況は少しだけ得した気分だったりもした。

そんな子ども時代の私は、親の感情的な言葉に対して、どこか一歩引いて、冷静に観察している自分がいたのだ。

そんなことを思い出しながら営業所からバスに揺られていると、隣に座っていたおばあさんが、スーパーの袋から大きな鯛焼きを取り出して食べ始めた。

餡子がたっぷり詰まった、見るからに美味しそうな鯛焼き。

そのあんこの甘い香りが、さっきの肉じゃがの記憶と重なって、なんだか不思議な気持ちになった。

私も子供の頃、おばあちゃん家に行くと、いつも鯛焼きを買ってきてくれたっけ。

あの鯛焼きは、どんなに怒られても、どんなに嫌なことがあっても、一口食べれば全てを忘れさせてくれるような、魔法の味だった。

あの「産まなきゃよかった」という言葉も、今となっては、親が子育てに行き詰まった時の「SOS」だったんだな、とぼんやり思う。

自分たちの子育て経験を振り返ると、あの頃の親は、きっと自分たちのことで精一杯だったのだろう。

私たち夫婦も、子どもたちが小さい頃は、それはもう毎日が戦争のようだった。

朝は保育園の準備、夜は寝かしつけ、週末は習い事の送迎。

ご飯を作っても「これ嫌い!

」と言われ、新しい服を買ってきても「これダサい!

」と一蹴される。

もう、どこから手をつけていいのか分からず、ただただ途方に暮れる日々の連続だった。

「ああ、もう、投げ出したい!

」と思ったことは数えきれない。

そんな時、ふと口から漏れる言葉って、きっと本人も意識していない、本心ではない言葉だったりするんじゃないかな。

疲れ果てて、もう限界、というときに、ポロッと出てしまうもの。

それは、子どもに対する愛情が薄いとか、後悔しているとか、そういうことではなくて、単に「もう無理!

」という、切羽詰まった心の叫びだったのだ。

もちろん、あの言葉が子供を傷つける可能性は十分にある。

でも、大人になった今なら、その背景にあったであろう親の葛藤や、未熟さも、少しは理解できるような気がする。

そう考えると、あの日の甘すぎる肉じゃがも、怒鳴る母の姿も、そして、私の口から漏れる「甘すぎない?

」という率直な意見も、すべてがそれぞれの精一杯だったのだ。

そして、その精一杯のぶつかり合いの中で、私たちは少しずつ成長してきた。

宅配便の営業所で見かけた親子も、きっとこれから何度もぶつかり合いながら、それぞれの「精一杯」をぶつけ合っていくのだろう。

バスが自宅近くの停留所に到着し、私はゆっくりと降りた。

空はすっかり暗くなり、街灯が道を照らしている。

家に着くと、夫がテーブルで何やら真剣な顔をして料理本を読んでいる。

「ただいま」と声をかけると、「ああ、おかえり。

今日の晩ご飯、中華にしようと思ってさ。

前に買った甜麺醤、使わないと賞味期限切れちゃうから」と、にこやかに答えた。

献立を考えるのも、買い物に行くのも、料理を作るのも、時には面倒で「もう適当でいいや!

」なんて思うこともあるけれど、こうして二人で食卓を囲む時間は、何よりも温かい。

夕食は、夫が作った麻婆豆腐と回鍋肉。

どちらもちょっと味が濃いめだったけれど、ご飯が進む味付けだった。

食卓には、スーパーで買ってきた半額のイチゴ。

二人でテレビを見ながら、ゆっくりと食事をする。

ああ、こういう時間が、今の私たちにとって一番の贅沢なんだな、としみじみ思う。

あの頃の親も、私たち夫婦も、そして営業所で出会った親子も、みんなそれぞれの立場で「精一杯」を生きている。

そして、その「精一杯」の中には、ちょっとした失敗や、口から漏れる本心ではない言葉、そして何より、たくさんの愛情が詰まっている。

だから、もしまた宅配便を3回逃しても、多分私はまた「はーい!

」と立ち上がってしまうのだろう。

懲りずに、何度でも。

人生って、結局そういうもんじゃないのかな、なんてね。

みんなもそう思わない?


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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