水筒と記憶違い、そしてゴミ箱の中の真実

📝 この記事のポイント

  • 銀行のATMで操作を間違えて、後ろに並んでいる人のプレッシャーを感じた。
  • 画面に表示された「お取り引きを中止します」の文字が、まるで私の人生そのものを象徴しているかのような気がしてくる。
  • 後ろに並んでいたのは、おそらく私よりずっと若い女性だった。

銀行のATMで操作を間違えて、後ろに並んでいる人のプレッシャーを感じた。

画面に表示された「お取り引きを中止します」の文字が、まるで私の人生そのものを象徴しているかのような気がしてくる。

後ろに並んでいたのは、おそらく私よりずっと若い女性だった。

焦ってカードを取り出し、頭を下げてその場を後にする。

彼女はきっと、手際よく、迷いなく、スムーズに用事を済ませるのだろう。

私と違って。

この春、単身赴任から帰ってきた。

約二年ぶりの家族との生活は、想像以上に細やかな再調整が必要だった。

まるで、少しだけ縮んでしまった服を無理やり着ているような、そんな違和感が常につきまとう。

特に、自分の中のペースと、家族のそれとが、どうにもズレる。

妻は毎日、あれこれと忙しく動き回っている。

子どもたちは、もう自分たちだけの世界をしっかり持っている。

その中で、私はどこに位置すればいいのか。

どこに私のスペースがあるのか。

そんなことを漠然と考えながら、この日は散歩に出かけた。

五月も半ば。

日差しはもう、遠慮なく肌を刺すような強さだ。

なのに風はまだ、どこか冷たさを残している。

半袖にするか、長袖にするか。

朝、玄関で五分ほど悩んだ。

結局、薄手のパーカーを選んだのは、日中の温度差に敏感になった、この四十代の体の変化を本能的に察知したからだろう。

いや、単に、半袖のTシャツが、まだ冬物のセーターと一緒に洗濯カゴの奥に埋もれていたからかもしれない。

衣替えをサボったツケが、こんなところに出る。

汗ばむ首筋。

喉の渇きを感じて、持参した水筒を手に取った。

中身は、昨日妻が「あなた、最近疲れてるみたいだから」と、わざわざ買ってきてくれた経口補水液のはずだ。

パッケージに「レモン風味」と書いてあったのを覚えている。

スポーツドリンクよりも、もっとじんわりと体に染み渡るような、あの優しい味が、今の私には必要だと思った。

蓋を開け、ゴクッと一口。

「ぶっっ!」

思わず、口の中の液体を勢いよく吐き出した。

道端に、白くてドロッとしたものが飛び散る。

通行人がギョッとした顔でこちらを見ていた。

私は謝る間もなく、必死で口の中を拭った。

な、なんだ、これ?

甘い。

いや、甘いを通り越して、もう「化学物質」としか表現できないような、強烈な甘さ。

そして、同時に襲い来る、あの独特の粘り気。

レモン風味?

いやいや、断じて違う。

これは、レモンの「レ」の字もカスっていない。

吐き出した後も、口の中に残るその味は、まるで永遠に消えない呪いのようにまとわりつく。

全身に鳥肌が立った。

道行く人々の視線が突き刺さる。

おそらく彼らは「あの男、何か変なものを飲んで、道端で吐きやがった」と思っているに違いない。

いや、実際にそうだった。

私は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、水筒の蓋を閉め、足早にその場を立ち去った。

家に帰り着くと、まず洗面所に駆け込み、口を念入りにうがいした。

何度洗っても、あの甘ったるい粘膜が残っているような気がして、歯ブラシまで持ち出して磨いた。

一体、何だったんだ、あれは。

妻がくれた経口補水液ではなかったのか。

そんなはずはない。

確かに、昨日、台所のカウンターに置いてあったパッケージを見たはずだ。

レモン風味、と。

ふと、玄関の隅に置きっぱなしにしてあった、昨日のゴミ袋が目に入った。

半透明の袋の隙間から、何かのパッケージが覗いている。

もしかしたら。

そう思い、私はゴミ袋を引っ張り出し、中身を漁り始めた。

妻が嫌がるだろうな、と思いながらも、この疑念を晴らさないことには、どうにも落ち着かない。

生ゴミと段ボールの間に埋もれていた、そのパッケージを見つけた瞬間、私は「ああ」と、納得と同時に絶望のため息をついた。

そこには確かに「レモン風味」と書かれていた。

だが、それは経口補水液のパッケージではなかった。

「濃縮タイプ。混ぜて美味しい、レモンスカッシュの素」

……そう。

水筒に入っていたのは、水で薄める前の、原液だったのだ。

どうりで甘いわけだ。

どうりで、口の中がネバネバするわけだ。

妻は、私が散歩に出る前に、その「レモンスカッシュの素」を水筒に作り置きしておいてくれたらしい。

私はそれを、てっきり「経口補水液」と勘違いし、そのままゴクッとやってしまった、というわけだ。

やれやれ。

単身赴任中、自分のことは全部自分でやっていた。

洗濯も、食事も、掃除も。

完璧とは言えないまでも、それなりにこなしていたつもりだった。

ところが、家族との生活に戻ってくると、途端に自分の不注意が目立つようになる。

妻が「あれ、どこに置いた?

」と聞けば、私は「知らない」と答える。

だが、本当は知らないのではなく、私の目の届かないところに、既に妻が片付けているのだ。

妻は、私が散歩に出る前に「水筒、作っておいたよ」と言ってくれていた。

私はその言葉を、きっと「経口補水液、準備しておいたよ」と、勝手に変換して記憶していたのだろう。

自分の中の思い込みが、現実を歪ませる。

他人の親切を、自分の都合の良いように解釈してしまう。

ああ、これではまるで、冒頭のATMでの私ではないか。

後ろに人が並んでいるという、勝手なプレッシャーを感じて、操作を誤る。

他人の存在が、自分の行動に影響を与える。

いや、待てよ。

妻の行動も、よく考えれば、少しだけ「あれ?

」と思うところがある。

なぜ「レモンスカッシュ」と、一言付け加えなかったのか。

なぜ、何の変哲もない水筒に、わざわざ原液を入れたのか。

いや、きっと水で薄めるつもりだったのだろう。

私が飲む前に、そうするつもりだったのかもしれない。

ただ、私がそれよりも早く、水筒を持って出かけてしまった、と。

どっちもどっち。そう言えば聞こえは良いが、結局は、お互いのちょっとした「すれ違い」が、こんなにも滑稽な結果を生むのだ。

翌日。

朝食の席で、私は妻に「昨日、実はさ…」と、恥を忍んで水筒事件の一部始終を話した。

妻は、最初キョトンとしていたが、私が吐き出した時の様子を身振り手振りで説明すると、やがて大爆笑した。

子どもたちも、その話に興味津々で「パパ、変なもの飲んだのー?

」と、からかうように聞いてくる。

「ねえ、なんで『レモンスカッシュの素』って言わなかったのさ」と、私が軽く咎めるように言うと、妻は笑いながら「だって、これから薄めるつもりだったんだもん!

まさか、そのまま飲むなんて思わないじゃない!

」と反論した。

確かに、その通りだ。誰も、濃縮タイプの飲料の原液を、そのままゴクゴク飲むなんて、想定しないだろう。私の行動は、完全に想定外だった。妻の言葉に、私はぐうの音も出なかった。

その日の午後、妻は改めて、ちゃんとした経口補水液を買ってきてくれた。

今度は、ペットボトルに入った、そのまま飲めるタイプのものだ。

冷蔵庫に冷やしてあるそれを見て、私は心の中で「ありがとう」とつぶやいた。

そして、同時に「今度は、間違えないぞ」と、固く誓った。

六月に入り、梅雨の気配が濃くなってきた。

晴れたと思えば、急に雨が降り出す。

気温も湿度も、日によって、時間によって、大きく変動する。

体調を崩しやすい季節だ。

私も、このところ、なんだか体がだるい。

単身赴任中に身についた、自分だけのペース。

それが、家族との生活の中で、少しずつ変わっていく。

良い変化も、戸惑う変化も、両方ある。

水筒の中身を間違えるような、些細な失敗。

それは、この再適応期間における、小さな「あるある」なのかもしれない。

自分の勘違いや思い込み。

そして、それに対する他者の反応。

そういった小さなズレの積み重ねが、やがて大きな笑い話になったり、あるいは、ちょっとした摩擦になったりする。

夕食後、リビングで子どもたちが楽しそうにテレビを見ている。

妻は台所で、明日の準備をしているようだ。

私は、洗い物をしながら、ふと考える。

あの水筒事件以来、私と妻の間には、小さな冗談が増えた気がする。

「パパ、これ原液じゃない?

」とか、「水筒の中身、よく確認してね」とか。

人間関係も、季節の移り変わりと同じだ。

常に同じではない。

晴れの日もあれば、雨の日もある。

肌寒い日も、汗ばむ日も。

その中で、私たちは少しずつ、お互いの温度や湿度に合わせて、着るものを変えたり、飲むものを変えたりしていく。

時には、間違って原液を飲んで、大騒ぎすることも。

だが、それもまた、家族の日常なのだ。

私は、そっと水筒を洗い、棚にしまった。

次は、何を入れようか。

薄い麦茶か。

それとも、ちゃんと薄めたレモンスカッシュか。

どちらにしても、飲む前には、必ず中身を確認する。

もう二度と、あの強烈な甘さを、口にしたくはない。

だが、あの日の恥ずかしさと、妻の爆笑は、きっと忘れられないだろう。

そして、それがまた、いつかどこかで、誰かに話す「あるある」エピソードになるのだ。

そう思うと、少しだけ、この日常が愛おしく思えてくる。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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