📝 この記事のポイント
- ファミレスで隣の席の家族の会話が面白すぎて、料理が喉を通らなかった。
- 小学3年生くらいの男の子が、おもちゃのミニカーを握りしめながら「パパ、これってさ、僕の人生で一番大事なことなんだよ」と真剣な顔で父親に訴えている。
- 父親は「ふんふん、そうかそうか」と生返事をしながら、スマホの画面を親指でせわしなく撫でていた。
ファミレスで隣の席の家族の会話が面白すぎて、料理が喉を通らなかった。
小学3年生くらいの男の子が、おもちゃのミニカーを握りしめながら「パパ、これってさ、僕の人生で一番大事なことなんだよ」と真剣な顔で父親に訴えている。
父親は「ふんふん、そうかそうか」と生返事をしながら、スマホの画面を親指でせわしなく撫でていた。
母親は「あんたも好きねぇ」と笑いながらパスタをフォークで巻き取っている。
その光景があまりにも平和で、そしてシュールで、なんだか僕の心にぐいぐい入り込んできて、目の前のチキン南蛮定食の味がしばらくの間、どこかへ飛んでいってしまった。
僕は大学院生になってから、こういう他人の日常をぼんやり眺める時間がすごく好きになった。
特に、無自覚に繰り広げられるドラマには、妙なリアリティと発見がある。
昔の僕は、もっと「ちゃんとしなきゃ」と思っていた。
高校生の頃、部活の練習が終わって家に帰ると、すぐに机に向かっていた。
別に誰かに言われたわけじゃない。
ただ、「勉強しないと、周りに置いていかれる」という漠然とした恐怖に駆られていたんだと思う。
英語の単語帳は毎日100個覚えるノルマを自分に課していたし、数学の問題集は寝る前に必ず3ページ解くと決めていた。
もしそのノルマを達成できなかった日には、寝つきが悪くなるくらい自分を責めた。
真面目といえば聞こえはいいけど、今思えば、かなりストイックというか、自分を追い詰めるのが得意なタイプだったのかもしれない。
週末には、近所の図書館に朝から晩まで籠って、分厚い参考書を何冊も広げていた。
たまにサボって友達とファミレスに行っても、頭の片隅には常に「勉強しなきゃ」という焦りがこびりついていたっけ。
あの頃は、人生の目標が明確で、そこに向かって一直線に走っているような感覚があった。
将来、こんな大人になりたい、こんな研究がしたい、そんな夢をノートの隅っこに書きつけては、それを見て自分を鼓舞していた。
大学に入ってからは、さすがに高校生の頃ほど自分を追い込むことはなくなったけど、それでも「有意義に時間を使わなければ」という意識は強かった。
サークル活動もバイトも、ゼミの勉強も、すべてを全力でやろうとしていた。
休日の午前中には、必ずジムに行って体を動かすとか、週に一冊は専門書を読むとか、そういう自分ルールをいくつも作っていたんだよね。
もちろん、全部を完璧にこなせるわけじゃない。
ジムに行くはずが、前日の飲み会で寝坊して行けなかったり、専門書を読み始めたものの、途中で飽きて漫画を読み始めてしまったり。
それでも、「明日は頑張ろう」とか「次はちゃんとやろう」と反省して、また新たな目標を立て直していた。
自分を変えたい、もっと成長したい、という気持ちが、いつも僕の原動力だった。
それが、大学院生になった今、どうだ。
もう、「ちゃんとしなきゃ」という強迫観念はすっかり薄れてしまった。
いや、薄れたというよりは、もはや消滅に近いかもしれない。
実験と論文に追われる日々の中で、いつの間にか「できることだけやればいい」という開き直りの境地に至ってしまったというか。
朝、目覚ましが鳴っても、二度寝、三度寝は当たり前。
起き上がってからも、ベッドの中でスマホを眺めながら、気づけば30分、いや、時には1時間近くもぼんやり過ごしている。
昔なら「この時間で単語が10個覚えられたのに!
」なんて思っていたはずなのに、今は「ふぅ、今日はよく眠れたな」くらいのんびり構えている。
以前は、洗濯物を畳むのが苦手で、週末にまとめて畳むと決めていたけれど、今はもう畳むことすら放棄して、乾燥機から出したばかりの服をそのまま部屋の隅に積んで、そこから必要なものを引っ張り出す生活だ。
積み上がった服の山は、もはやちょっとしたアート作品のようになっている。
そんな怠惰な生活を象徴するのが、今年の正月だった。
実家に帰省するでもなく、かといって友達と旅行に行くでもなく、僕は一人、アパートでだらだらと過ごしていた。
まさに三が日、テレビの前に張り付き、寝転がったまま、ひたすらお笑い番組を消化していく。
その中で、特に僕の目を釘付けにしたのが、トム・ブラウンだった。
そう、あのトム・ブラウンだ。
布川さんの「ダメーーー」と、みちおさんの奇想天外な漫才。
年末のネタ番組で彼らを見て、なぜか無性に生のトム・ブラウンが観たくなった。
あの「ダメーーー」を生で聞きたい、あの独特な世界観にどっぷり浸かりたい、という謎の衝動に駆られたのだ。
正月休みも終わりに差し掛かる頃、僕は意を決して、とあるお笑いライブのチケットを取った。
チケット代は4000円。
大学院生にとっては結構な出費だ。
しかも、会場は新宿の小さな劇場で、普段なら絶対に足を踏み入れないような場所だった。
ライブ当日、僕はちょっとした冒険気分で劇場に向かった。
会場に着くと、客席は満員。
僕の隣には、僕と同じくらいの年齢のカップルが座っていた。
開演を待つ間、僕は少し緊張していた。
お笑いライブなんて、大学生になってから初めてかもしれない。
いや、もしかしたら人生で初めてかもしれないな。
そして、いよいよトム・ブラウンの出番が来た。
彼らが舞台に登場すると、会場の空気が一変した。
テレビで見る彼らも面白いけれど、生で見る彼らは、想像をはるかに超えていた。
みちおさんの体格は、テレビで見るよりもずっと大きく、まるで岩石のようだった。
そして、その表情は、なんというか、ものすごく「いかつい」。
怖いくらいに鋭い眼光で客席を見渡し、マイクを握りしめている。
布川さんも、テレビで見るよりもずっと「圧」があった。
漫才が始まった瞬間、僕は度肝を抜かれた。
みちおさんのボケは、テレビで見るよりもさらに暴力的で、そして予測不能だった。
舞台の上を縦横無尽に動き回り、奇声を発し、時には客席にまでその荒々しいエネルギーが飛び散ってくるような感覚。
布川さんのツッコミも、テレビよりもずっと迫力がある。
特に、あの「ダメーーー」を生で聞いた瞬間、僕は思わず身震いした。
あの声量と、全身を使った表現は、テレビの画面越しでは伝わらないものだった。
僕の隣のカップルの女性は、面白すぎてずっと口をあんぐり開けていたし、男性の方は体を揺らしながら、時折小さな悲鳴を上げていた。
会場全体が、彼らの世界観に引きずり込まれていくような、そんな熱気と興奮に包まれていた。
僕は、漫才というよりは、むしろ彼らの「暴力的なエネルギー」を全身で浴びているような感覚に陥った。
笑いながらも、どこか圧倒され、怖さすら感じていた。
それでも、それがめちゃくちゃ面白かったんだ。
ライブが終わって劇場を出たとき、僕はなんだか頭がからっぽになっていた。
脳みそが揺さぶられたというか、すべての思考が一時停止したような感覚。
外の冷たい空気が、火照った顔に心地よかった。
あのライブは、僕にとって、正月の怠惰な日々の中で経験した、ある種の「覚醒」だったのかもしれない。
いや、覚醒というと大げさか。
ただ、自分の無意識の中にあった「何か」を、彼らの暴力的なお笑いが、引っ張り出してくれたような、そんな気がしたんだ。
昔の僕は、自分を変えたいと常に思っていた。
もっとこうなりたい、ああなりたい、と願って、努力する。
でも、今は「変わる」ことに対して、少し諦めがある。
いや、諦めではないな。
無理に変わろうとしない、という感じだ。
今の僕は、昔の僕が目標としていたような「ちゃんとした大人」ではないかもしれない。
相変わらず、洗濯物は畳まずに山になっているし、実験の合間にはスマホでSNSを眺めてしまう。
ジム通いは完全にやめてしまったし、週に一冊専門書を読む習慣も、いつの間にか消え去った。
やろうと思ってできないこと、続かないことだらけだ。
正月休み中だって、研究室の先輩から「正月休み中にちょっとでも論文の構成考えておくといいぞ」と言われたのに、結局テレビを観ながらダラダラ過ごしてしまった。
でも、それが今の僕なんだ。
変わったことといえば、昔よりも「まあいっか」と思えるようになったことかもしれない。
昔は、ちょっとした失敗や怠惰に対して、ひどく自分を責めていた。
でも今は、少しだけ、自分に優しくなれるようになった気がする。
怠惰な自分も、まあ、それはそれでアリか、と。
完璧じゃない自分を許せるようになった、というのは、もしかしたら大きな変化なのかもしれない。
でも、変わらないこともある。
それは、日常のささやかな出来事から、何かを発見しようとする好奇心だ。
ファミレスで隣の席の家族を観察したり、トム・ブラウンの漫才に衝撃を受けたり。
そういう、日常に転がっている「なんでだろう」「面白いな」という感情は、昔から変わらず僕の中にある。
大学院生になって、研究室に籠もって実験ばかりしていると、どうしても視野が狭くなりがちだ。
でも、ふとした瞬間に外の世界に目を向けてみると、そこには驚くほど多様な、そして面白いことが溢れている。
それは、僕が研究室で追い求めている「真理」とは少し違うかもしれないけれど、それでも、僕の生活に彩りを与えてくれる、かけがえのないものなんだ。
あのトム・ブラウンのライブを観て以来、僕は時々、彼らのネタをYouTubeで検索して観ている。
そして、あの「ダメーーー」を聞くたびに、正月の、あの暴力的なまでの面白さを思い出す。
僕の怠惰な日常は、きっとこれからも続いていくのだろう。
でも、その怠惰の合間に、ふと訪れる小さな発見や、刺激的な出会いが、僕の生活を豊かにしてくれる。
それは、まるで、積まれた洗濯物の山の中から、お気に入りの服を見つけ出すような、ささやかな喜びなのかもしれない。
そして、僕はまた、次の「ダメーーー」を求めて、日常という名の舞台をぼんやりと眺め続けるのだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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