📝 この記事のポイント
- 満員電車の吊り革を握る手に、じっとりと汗が滲む。
- 気温は低いけれど、この人口密度のせいだろうか、まるでサウナの中にいるみたいだ。
- 朝からニュースでは、インフルエンザの流行と、某IT企業の社長がメタバースに豪邸を建てた話が流れている。
2026年1月26日。月曜日。
満員電車の吊り革を握る手に、じっとりと汗が滲む。今日の東京の天気は曇り。気温は低いけれど、この人口密度のせいだろうか、まるでサウナの中にいるみたいだ。朝からニュースでは、インフルエンザの流行と、某IT企業の社長がメタバースに豪邸を建てた話が流れている。未来と現実の乖離。そんな言葉が頭をよぎる。
私は都内の小さなデザイン会社で働く、28歳のデザイナーだ。名前は佐々木美咲。特に秀でた才能があるわけでも、カリスマ性があるわけでもない、ごく普通の人間。趣味は、カフェ巡りと、深夜の映画鑑賞。最近の悩みは、増え続けるサブスクリプションサービスと、SNSのタイムラインに流れてくるキラキラした情報に、自分が置いていかれているような焦燥感を覚えること。
会社に着くと、いつものようにコーヒーを淹れる。オフィスは、渋谷駅から少し離れた雑居ビルの4階にある。築年数は古く、エレベーターもない。階段を上がるたびに、膝が悲鳴を上げている気がする。でも、このレトロな雰囲気が、意外と気に入っている。
今日の最初の仕事は、クライアントに提出するプレゼン資料の最終チェック。資料を開いた瞬間、ため息が出た。フォントの統一、画像の解像度、グラフの配置…。細部に至るまで、完璧を求められる。正直、面倒くさいと思うこともあるけれど、クライアントの期待に応えるためには、手を抜くことはできない。それがプロの仕事だ。
資料のチェックを終え、ふと顔を上げると、隣の席の田中さんが、何やら困った顔をしている。田中さんは、入社3年目のデザイナーで、私よりも少し年下。真面目で明るい性格で、周りからの信頼も厚い。
「どうしたの、田中さん?何かあった?」
声をかけると、田中さんは少し躊躇した後、口を開いた。
「あの…、実は、トイレのドアノブが壊れていて…。」
「ドアノブが?」
「はい。握る部分が、人間の手みたいになっているんです。しかも、妙にリアルで…。」
私は一瞬、田中さんの言っている意味が分からなかった。ドアノブが、人間の手?そんなデザイン、聞いたことがない。
「ちょっと、見に行ってもいいですか?」
田中さんに案内され、トイレに向かった。確かに、トイレのドアノブは、異様な雰囲気を放っていた。それは、まるで誰かの手が、ドアに掴まっているかのような形をしていた。指の皺、爪の形、血管の浮き具合…。細部に至るまで、リアルに再現されている。
「これ、気持ち悪いですよね…?」
田中さんが、顔をしかめながら言った。私も、正直、少しゾッとした。
「確かに、ちょっと怖いかも。でも、面白いデザインだね。」
そう言うと、田中さんは少し驚いたような顔をした。
「面白いですか?私は、夜中に見たら腰を抜かす自信があります。」
「まあ、人それぞれだよね。でも、このデザイン、何かメッセージが込められているのかもしれないよ。」
私は、ドアノブをじっと見つめた。握るという行為、触れ合うという行為。誰かの手を握る時の、温もりや安心感。このドアノブは、そんな感情を思い出させようとしているのかもしれない。
その日の午後、SNSで「#会社のドアノブ」というハッシュタグがトレンド入りしているのを知った。きっかけは、とあるユーザーが投稿した写真。それは、まさに私たちが今日見た、あの手の形をしたドアノブだった。
「うちの会社のドアノブ、マジでホラー。夜中に見たら、絶対に叫ぶ自信ある。」
そんなコメントと共に拡散された写真は、瞬く間に話題となり、様々な意見が飛び交った。
「これ、完全に吉良吉影じゃん。」
「スタンド使いが勤務してそう。」
「デザイナーの悪ふざけ?」
中には、「このデザイン、芸術的だ。」「握手の温もりを感じる。」といった肯定的な意見もあった。
私は、SNSのコメントを読みながら、複雑な気持ちになった。たかがドアノブ。されどドアノブ。そのデザイン一つで、これだけの議論が巻き起こる。SNSの力は凄いけれど、同時に、その情報の拡散力に、少し恐怖も感じた。
その日の夜、私は近所のカフェで、友人のユキと会った。ユキは、大学時代からの親友で、現在はフリーランスのライターとして活躍している。
「ねえ、ユキ。今日、会社で変なドアノブを見たんだ。」
私は、今日あった出来事をユキに話した。ユキは、私の話を興味深そうに聞いていた。
「それ、面白いね。もしかしたら、その会社、何か仕掛けてるんじゃない?話題作りとか。」
ユキは、コーヒーを飲みながら言った。
「そうかもしれない。でも、私は、あのドアノブを見た時、何か懐かしいような、温かいような気持ちになったんだ。」
「温かい?美咲が?珍しいね。」
ユキは、いたずらっぽく笑った。
「だって、本当にそう思ったんだもん。誰かの手を握る時の、あの安心感とか、温もりとか…。最近、そういう感情、忘れてたなって。」
私は、少し恥ずかしそうに言った。
ユキは、しばらく黙って私の顔を見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「美咲、最近、忙しそうだもんね。毎日、仕事に追われて、自分の時間も、心の余裕もなくなってるんじゃない?」
ユキの言葉に、ドキッとした。まさに、その通りだったから。私は、毎日、目の前の仕事をこなすことで精一杯で、本当に大切なものを見失っていたのかもしれない。
「ねえ、美咲。たまには、ゆっくり休んだ方がいいよ。自分の心と向き合う時間も必要だよ。」
ユキは、優しい声で言った。
その言葉を聞いて、私は、少し涙が出そうになった。ユキは、いつも私のことをよく分かっている。
カフェを出て、家に向かう途中、ふと空を見上げた。星が、ほんの少しだけ見えた。
(そうだ、たまには、ゆっくり休もう。)
私は、心の中でそう呟いた。そして、明日の朝、会社に行くのが、少しだけ楽しみになった。あのドアノブに、もう一度触れてみよう。今度は、どんな感情が湧き上がってくるだろうか。
数日後、会社のトイレのドアノブは、新しいものに交換された。普通の、何の変哲もない、シルバーのドアノブ。少しだけ、寂しい気持ちになった。
ある日の夕方、私は会社からの帰り道、駅前の広場で開催されていた、小さなアートイベントに立ち寄った。様々なアーティストの作品が展示されており、多くの人が足を止めて見入っていた。
ふと、ある作品に目が留まった。それは、石膏で作られた手のオブジェだった。指の皺、爪の形、血管の浮き具合…。細部に至るまで、リアルに再現されている。
その作品を見た瞬間、私は、あの会社のドアノブを思い出した。そして、あの時感じた、温もりや安心感を、再び思い出した。
(ああ、そうか。)
私は、心の中で呟いた。
(あのドアノブは、ただ気持ち悪いだけのデザインではなかったんだ。)
それは、現代社会で忘れかけていた、人間と人間の繋がりを思い出させる、メッセージだったのかもしれない。
2026年1月26日。あのドアノブ騒動から、数週間が経った。
私は、今も毎日、満員電車に揺られ、会社に通っている。仕事は相変わらず忙しいけれど、以前よりも、少しだけ心の余裕ができた気がする。
そして、私は、たまに、誰かの手を握りたくなる。家族の手、友人の手、恋人の手…。誰かの手を握ることで、温もりを感じ、安心感を得られる。そんな、当たり前のことを、改めて実感した。
現代社会は、便利で快適になったけれど、その一方で、人間と人間の繋がりが希薄になっているのかもしれない。SNSで簡単に繋がれるけれど、実際に会って話す機会は減っている。物質的な豊かさは手に入れたけれど、心の豊かさは失われているのかもしれない。
あのドアノブは、そんな現代社会に対する、静かなる抵抗だったのかもしれない。
2026年1月26日。あのドアノブ騒動は、私にとって、忘れられない出来事となった。
そして、私は、これからも、誰かの手を握りながら、生きていくのだろう。
握手の温度。それは、現代社会で失われかけている、大切なもの。
ノブの予感。それは、私たちが、まだ見ぬ未来への希望を抱くこと。
そんなことを、私は、あのドアノブから教わった。
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※このエッセイは、Togetterのまとめから着想を得て創作されたフィクションです。
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