📝 この記事のポイント
- 都心のカフェは、今日も今日とて情報過多の海だった。
- 隣のテーブルでは、就活生らしき男女が企業分析アプリの画面を覗き込み、その奥では、リモート会議に参加している女性が、時折ミュートを解除しては「アジャイルって結局…」と難しい顔をしている。
- スピーカーから漏れ出すのは、どこかのニュース番組のコメンテーターの声。
2026年1月15日。都心のカフェは、今日も今日とて情報過多の海だった。隣のテーブルでは、就活生らしき男女が企業分析アプリの画面を覗き込み、その奥では、リモート会議に参加している女性が、時折ミュートを解除しては「アジャイルって結局…」と難しい顔をしている。スピーカーから漏れ出すのは、どこかのニュース番組のコメンテーターの声。
「…今回のサミットにおける首脳陣のドラムセッションは、両国の友好関係を音楽で表現しようとした試みとして評価されていますが、専門家からは、ドラムセットの構成や選曲において、さらなる改善の余地があったという声も上がっています…」
ニュースの内容は、数日前に話題になった日韓首脳会談での、まさかのドラム演奏パフォーマンスについてだった。首脳が並んでドラムを叩く映像は、瞬く間にSNSで拡散され、賛否両論、いや、ほとんどがネタとしてのツッコミで溢れかえっていた。
僕はカフェラテを啜りながら、目の前のノートPCで、締め切り間近の企画書をカタカタと叩いていた。広告代理店で働く僕、ユウタは、28歳。毎日、クライアントの要望と、上司の理不尽な指示の間で板挟みになりながら、なんとか生き延びている。
正直、首脳のドラム演奏なんて、どうでもよかった。それよりも、明日のプレゼン資料の完成度の方が、よっぽど重要だった。しかし、カフェの喧騒の中で、ふと、あのニュースに対するSNSの反応を思い出した。
「ツーバスじゃないとかありえない!」「せめてツインペダルにしろよ!」「スネアのチューニング甘すぎ!」
まるで音楽評論家のような、いや、音楽評論家よりも熱のこもったコメントの数々。そこには、音楽に対する深い愛情と、同時に、何かを批評することでしか満たされない、歪んだ承認欲求が渦巻いているように感じられた。
「承認欲求か…」
僕は小さく呟いた。それは、僕自身にも深く突き刺さる言葉だった。
幼い頃から、僕は何かを「できる」ことでしか、自分の価値を認められなかった。テストで良い点を取る、スポーツで活躍する、絵画コンクールで入賞する。常に、周囲からの評価が、僕のアイデンティティを形作ってきた。
そして、大人になった今も、その呪縛から逃れられないでいる。クライアントに褒められたい、上司に認められたい、同僚に尊敬されたい。そのために、僕は必死に、企画書を書き、プレゼンの練習をし、愛想笑いを振りまく。
しかし、その努力は、本当に自分のためになっているのだろうか? それとも、ただ、誰かの期待に応えるためのパフォーマンスに過ぎないのだろうか?
カフェの喧騒の中に、かつてバンドを組んでいた大学時代の友人、ケンジの顔が浮かんだ。ケンジは、音楽に対する情熱の塊のような男で、僕の人生に、いくつかの重要な影響を与えてくれた。
僕が大学に入学したばかりの頃、ケンジは、学園祭のステージで、オリジナル曲を演奏していた。荒削りながらも、熱いメッセージが込められたその音楽は、僕の心を強く揺さぶった。
ケンジは、決して上手いプレイヤーではなかった。ギターのテクニックも、歌唱力も、プロのミュージシャンには遠く及ばなかった。しかし、彼の音楽には、誰にも真似できない、圧倒的なエネルギーがあった。
「ユウタ、お前も何か楽器やれよ! 音楽は、人生を豊かにする最高のツールだ!」
ケンジは、いつもそう言って、僕を音楽の世界に誘おうとした。しかし、僕は、楽器を演奏することに、恥ずかしさを感じていた。
「どうせ、俺なんか、上手く弾けるわけないし…」
僕は、そう言って、いつもケンジの誘いを断っていた。
しかし、ある日、ケンジは、僕に無理やりギターを握らせて、簡単なコードを教えてくれた。
「いいか、ユウタ。音楽は、技術じゃないんだ。大切なのは、自分の心を表現することだ。下手でもいいから、自分の音を鳴らせ!」
ケンジの言葉は、僕の心に深く響いた。僕は、それから少しずつ、ギターを練習するようになった。
最初は、コードを押さえるだけでも苦労したが、練習を重ねるうちに、少しずつ、自分の音が出せるようになっていった。
そして、数ヶ月後、僕は、ケンジのバンドに、ギターとして参加することになった。
学園祭のステージで、僕らは、オリジナル曲を演奏した。僕は、緊張で手が震えていたが、ケンジの力強いギターの音に励まされ、なんとか最後まで演奏することができた。
ステージが終わった後、ケンジは、僕の肩を叩いて、言った。
「ユウタ、やったな! お前のギター、最高だったぜ!」
ケンジの言葉は、僕にとって、何よりも嬉しい言葉だった。初めて、僕は、誰かの期待に応えるのではなく、自分のために、何かを成し遂げることができたのだと感じた。
しかし、大学卒業後、僕は、音楽から遠ざかってしまった。就職活動が始まり、将来のことを考えると、音楽に時間を費やす余裕はなくなってしまった。
そして、僕は、広告代理店に入社し、毎日、仕事に追われる日々を送るようになった。
ケンジとは、たまに連絡を取り合っていたが、会う機会はめっきり減ってしまった。ケンジは、今も音楽活動を続けているらしい。小さなライブハウスで、自分の音楽を奏でているという。
僕は、ケンジの音楽に対する情熱を、羨ましく思うと同時に、少しだけ、後ろめたくも感じていた。
「…ドラムセットの構成だけでなく、照明や演出にも、もっと工夫が必要だったという声も上がっていますね…」
カフェのスピーカーから、ニュース番組のコメンテーターの声が聞こえてきた。僕は、再び、首脳のドラム演奏に対するSNSの反応を思い出した。
「ドラムセットごと回転したら完璧!」「チャイナシンバルがないのって…」
人々は、なぜ、あんなにも熱心に、ドラムセットの構成を批評するのだろうか? それは、単に、音楽に対する知識をひけらかしたいからなのだろうか? それとも、何か別の理由があるのだろうか?
僕は、ふと、気がついた。
人々は、ドラムセットの構成を批評することで、自分の承認欲求を満たしているのではないだろうか? つまり、自分は、ドラムセットの構成について、これだけの知識を持っているんだ、ということをアピールすることで、自分の価値を認めさせようとしているのではないだろうか?
それは、僕自身にも当てはまることだった。僕は、企画書を書き、プレゼンの練習をすることで、自分の能力をアピールし、周囲からの評価を得ようとしている。
しかし、それは、本当に自分のためになっているのだろうか? それとも、ただ、誰かの期待に応えるためのパフォーマンスに過ぎないのだろうか?
僕は、カフェラテを飲み干し、ノートPCを閉じた。そして、立ち上がり、カフェを出た。
外は、冷たい風が吹いていた。僕は、マフラーを巻きつけ、ゆっくりと歩き出した。
どこへ行こうか? 家に帰って、企画書の続きを書くか? それとも、飲みに行って、同僚と愚痴を言い合うか?
僕は、迷った。しかし、その時、ふと、ある場所に行ってみたくなった。
僕は、スマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。そして、ある場所を検索した。
それは、近所の楽器店だった。
楽器店に入ると、様々な楽器の音が、耳に飛び込んできた。ギター、ベース、ドラム、ピアノ…。それぞれの楽器が、それぞれの音を奏で、店内は、まるで小さなオーケストラのようだった。
僕は、ギターコーナーに向かった。様々な種類のギターが、壁一面に飾られていた。僕は、その中から、一本のギターを選び、手に取った。
それは、昔、ケンジに教えてもらったギターと同じ、アコースティックギターだった。僕は、ギターの弦を爪弾いてみた。久しぶりに触るギターの感触が、懐かしかった。
僕は、ギターを抱え、店員に声をかけた。
「すみません、このギターを試奏してもいいですか?」
店員は、笑顔で答えた。
「もちろんです。どうぞ、ごゆっくり」
僕は、試奏室に入り、椅子に座った。そして、ギターを構え、ゆっくりとコードを弾き始めた。
最初は、指が思うように動かなかったが、少しずつ、感覚が戻ってきた。僕は、昔、ケンジに教えてもらった曲を弾いてみた。
それは、シンプルなコード進行の曲だったが、弾いているうちに、様々な感情が湧き上がってきた。懐かしさ、喜び、悲しみ、そして、少しの後悔…。
僕は、ギターを弾きながら、歌い始めた。下手な歌だったが、自分の心を込めて歌った。
歌い終わった後、僕は、しばらくの間、ギターを抱えたまま、目を閉じていた。そして、ゆっくりと目を開け、ギターを元の場所に戻した。
店を出ると、空は、すでに暗くなっていた。僕は、深呼吸をして、夜空を見上げた。
空には、満月が輝いていた。
僕は、今日、楽器店に行ったことで、何か大切なことを思い出したような気がした。それは、音楽は、技術ではなく、自分の心を表現するためのツールであるということ。そして、自分のために、何かを成し遂げることの喜びだった。
僕は、明日から、少しだけ、生き方を変えてみようと思った。誰かの期待に応えるのではなく、自分の心に正直に生きよう。そして、自分のために、何かを成し遂げよう。
僕は、夜空を見上げながら、そう心に誓った。
数日後、僕は、ケンジに電話をかけた。
「もしもし、ケンジ? ユウタだよ」
「ユウタ! どうしたんだ? 急に」
「実はさ、ちょっと話があって…」
僕は、ケンジに、最近あった出来事を話した。カフェでの出来事、SNSの反応、そして、楽器店でのこと。
ケンジは、僕の話を、静かに聞いていた。
「そうか… ユウタも、色々考えてるんだな」
ケンジは、そう言って、少しだけ間を置いた。
「ユウタ、今度、一緒にライブやらないか?」
ケンジの言葉は、僕にとって、予想外のものだった。
「え? ライブ? 俺なんか、もう全然弾けないよ…」
「大丈夫だよ。下手でもいいんだ。大切なのは、一緒に音楽を奏でることだ」
ケンジの言葉は、僕の心に深く響いた。僕は、少しだけ迷ったが、最終的には、ケンジの誘いを受けることにした。
「わかった。やるよ」
僕は、そう答えた。
その夜、僕は、久しぶりにギターを手に取り、練習を始めた。指は、思うように動かなかったが、少しずつ、感覚が戻ってきた。
僕は、ケンジと一緒に、ライブに向けて、練習を重ねることにした。
ライブ当日、僕は、緊張で手が震えていた。しかし、ケンジの力強いギターの音に励まされ、なんとか最後まで演奏することができた。
ステージが終わった後、ケンジは、僕の肩を叩いて、言った。
「ユウタ、最高だったぜ! また一緒にやろうな!」
ケンジの言葉は、僕にとって、何よりも嬉しい言葉だった。僕は、再び、音楽の喜びを感じることができた。
そして、僕は、これからも、自分の心に正直に生き、自分のために、何かを成し遂げていこうと決意した。
それは、承認欲求を満たすためではなく、自分の人生を豊かにするための、本当の意味での自己実現だった。
月明かりの下、僕は静かに微笑んだ。鼓膜を震わせる音は、誰かの評価を求める叫びではなく、ただ、そこにあるべき自分の音として、確かに響いていた。
※このエッセイは、Togetterのまとめから着想を得て創作されたフィクションです。
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