📝 この記事のポイント
- 2026年1月10日、都内の通勤電車は今日も満員だった。
- 窓ガラスに押し付けられた頬が、冷たくて少しだけ現実に戻してくれる。
- 向かいに立っている女性が持っているトートバッグに、見慣れたコーヒー豆のマークがプリントされている。
2026年1月10日、都内の通勤電車は今日も満員だった。窓ガラスに押し付けられた頬が、冷たくて少しだけ現実に戻してくれる。向かいに立っている女性が持っているトートバッグに、見慣れたコーヒー豆のマークがプリントされている。KALDI。ああ、まただ。
KALDIのことについて考えていると、いつも少しだけ頭が混乱する。あの雑多で、所狭しと商品が並べられた空間は、どう考えても異国情緒に溢れている。民族音楽のようなBGM、見たこともないスパイス、ギラギラしたパッケージのチョコレート。なのに、KALDIは日本の企業なのだ。
最初にそれを知った時、私は軽い衝撃を受けた。それは、子供の頃にサンタクロースの正体を知った時のような、夢が崩れ落ちる感覚とは少し違う。もっと複雑で、もっと現代的な、アイデンティティの曖昧さに対する戸惑いに近いものだった。
大学時代の友人、ユイを思い出す。彼女は帰国子女で、幼い頃から海外で暮らしていた。日本語は流暢だけれど、時々、会話の端々に英語のニュアンスが混じる。服装も、メイクも、考え方も、どこか日本人離れしていて、私たちは彼女のことを「逆輸入された日本人」と呼んでいた。
ある日、ユイとカフェで話していた時、彼女がポツリと呟いた。「私、どこにも属せない気がするんだ」。
私はユイの言葉にハッとした。彼女は、日本で生まれ育ったわけでもないし、完全に現地の人間として受け入れられているわけでもない。まるで国境線上に立っているかのように、常に違和感を抱えながら生きているのだ。
その時、私はKALDIのことも、ユイのことも、そして自分自身のことも、少しだけ理解できたような気がした。
私たちは皆、どこかの境界線上を生きている。それは、国籍や文化の違いだけではない。世代、価値観、ジェンダー、様々な境界線が、私たちの日常を複雑に彩っている。
オフィスに着くと、同僚の田中さんが深刻な顔でパソコンに向かっていた。
「どうしたんですか?」と声をかけると、田中さんは肩を落とした。「メタバースで新しいプロジェクトが始まるんだけど、全然イメージが湧かなくて…」。
田中さんは、生粋のアナログ人間だ。SNSもほとんどやらないし、最新のガジェットにも興味がない。メタバースという言葉を聞いただけで、頭痛がしてくるらしい。
「時代に取り残されるんじゃないかって、不安なんです」と田中さんは呟いた。
私は、田中さんの気持ちが痛いほどよく分かった。私も、SNSを毎日チェックしているけれど、正直なところ、メタバースの世界に心からワクワクしているわけではない。むしろ、情報の洪水に溺れて、自分を見失いそうになることの方が多い。
私たちは、常に変化し続ける社会に適応しなければならない。新しいテクノロジーを学び、新しい価値観を受け入れなければならない。でも、その過程で、私たちは何か大切なものを置き去りにしてしまっているのではないだろうか。
その日の夕方、私は久しぶりにKALDIに立ち寄った。コーヒー豆の香りに包まれて、店内をゆっくりと歩き回る。いつもは素通りしてしまうような商品も、今日はじっくりと眺めてみる。
メキシコのサルサソース、タイのグリーンカレー、ドイツのプレッツェル。世界中の食品が、所狭しと並べられている。
ふと、あることに気がついた。KALDIの商品は、どれも少しだけ「日本ナイズ」されているのだ。サルサソースは、日本人の味覚に合わせて辛さを抑えられているし、グリーンカレーは、ご飯によく合うようにアレンジされている。
KALDIは、日本の企業だからこそ、日本の消費者に合わせた商品を提供できるのだ。それは、ただ単に輸入食品を販売するだけではなく、異文化を日本の文脈に翻訳する、高度な文化的な作業なのだ。
台湾のKALDIでは、看板がカタカナ表記になっているらしい。それは、日本企業であることを強調するためだという。台湾の人々は、日本の「安心・安全」なイメージに惹かれるのかもしれない。
でも、私は少しだけ複雑な気持ちになった。カタカナの看板は、本当に「日本らしさ」を表現しているのだろうか。
カタカナは、日本語の表記体系の一部ではあるけれど、どこか記号的で、無機質な印象を与える。それは、まるでグローバル化された現代社会の象徴のようだ。
私たちは、自分たちのアイデンティティを、カタカナのような記号で表現しようとしているのではないだろうか。
その夜、私はSNSで「#カタカナ語禁止生活」というハッシュタグを見つけた。そのハッシュタグをつけている人々は、日常会話でカタカナ語を使わないように意識しているらしい。
「エモい」を「趣深い」と言い換えたり、「リスペクト」を「敬意」と言い換えたり。
彼らは、カタカナ語を使うことで、思考が浅くなることを危惧しているのだ。カタカナ語は、便利な言葉ではあるけれど、その言葉の背景にある文化や歴史を忘れさせてしまう可能性がある。
私も、少しだけ彼らの気持ちが理解できた。
私たちは、グローバル化の波に乗って、様々な文化を受け入れてきた。それは、素晴らしいことだけれど、その過程で、自分たちの言葉や文化を大切にすることを忘れてしまっているのではないだろうか。
2026年1月10日、私は、カタカナの国境線について考えていた。それは、グローバル化とローカル化、アイデンティティと多様性、過去と未来、様々な対立する概念が複雑に絡み合った、現代社会の縮図のようなものだった。
そして、私は、自分自身の立ち位置について、改めて考えさせられた。私は、どこに属しているのだろうか。私は、何を大切にしているのだろうか。
答えは、まだ見つからない。でも、私は、これからも、境界線上を彷徨いながら、自分自身のアイデンティティを探し続けていくだろう。
電車の窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れているように見えた。でも、その瞳の奥には、微かな光が宿っていた。それは、希望の光なのか、それとも迷いの光なのか。
私には、まだ分からない。
ただ、私は、この複雑で曖昧な世界を、少しでも理解したいと思っている。そして、自分自身の言葉で、その世界を表現したいと思っている。
それが、私にできることだと信じているから。
電車は、次の駅に到着した。私は、深呼吸をして、ドアが開くのを待った。そして、人混みをかき分けながら、新しい一日へと足を踏み出した。空は、どんよりと曇っていたけれど、私の心の中には、かすかな希望の光が灯っていた。
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※このエッセイは、Togetterのまとめから着想を得て創作されたフィクションです。
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