📝 この記事のポイント
- 新年の喧騒も落ち着き、日常がゆっくりと、しかし確実にその速度を取り戻し始める頃だ。
- 満員電車の窓ガラスに押し付けられた頬は、まだ少しだけ夢見心地を引きずっている。
- 今日から仕事始め、という人も多いのだろう。
2026年1月5日。新年の喧騒も落ち着き、日常がゆっくりと、しかし確実にその速度を取り戻し始める頃だ。満員電車の窓ガラスに押し付けられた頬は、まだ少しだけ夢見心地を引きずっている。今日から仕事始め、という人も多いのだろう。僕もその一人だ。
手元のスマートフォンを操作し、SNSのタイムラインをぼんやりと眺める。正月休みの旅行写真、手作りのおせち料理、初詣の様子…キラキラとした投稿が目に飛び込んでくる。いいね、と気軽にタップしながら、心のどこかでほんの少しだけ、焦燥感のようなものが顔を出すのを感じていた。
今年の正月は、実家でゆっくりと過ごした。両親と他愛もない話をし、昔の写真を見返したり、近所の神社へ初詣に行ったり。特別何かがあったわけではないけれど、それはそれで、悪くない時間だった。ただ、一つだけ、少しばかり気が重いことがあった。それは、年賀状だ。
数年前から、僕は年賀状を出すのをやめた。「年賀状じまい」という言葉が流行り始めた頃、僕もそれに倣って、友人や知人に、来年からは年賀状を控える旨を伝えた。理由はいくつかある。まず、単純に面倒だった。毎年、誰に出して誰に出していないかをリストアップし、デザインを選び、メッセージを書き、投函する。その一連の作業が、正直、僕には重荷だった。
それに、どこか形式的なやり取りに感じてしまう部分もあった。普段ほとんど連絡を取らない人に、年に一度、定型文のようなメッセージを送る。それは本当に必要なのか?もっと別の形で、もっとパーソナルなコミュニケーションを取りたい。そう思うようになったのだ。
しかし、世の中には、僕の「年賀状じまい」の意思を無視する人がいる。いや、無視というよりも、もっと複雑な感情がそこには渦巻いているのかもしれない。その代表格が、大学時代のサークルの先輩、タケダさんだ。
タケダさんからは、毎年必ず年賀状が届く。それも、ただの印刷されたものではなく、手書きのメッセージが添えられているのだ。「今年は〇〇に旅行に行きました!」「近況報告:最近、DIYにハマってます!」など、近況報告がぎっしりと書き込まれている。
最初に年賀状が届いた時は、少し戸惑った。年賀状じまいを伝えたはずなのに…。もしかして、伝わっていなかったのだろうか?そう思って、改めてタケダさんに連絡をした。「年賀状、ありがとうございます。でも、前に言ったように、僕は来年からは年賀状を控えることにしたので、お気遣いなく」と、丁寧に伝えたつもりだった。
すると、タケダさんからの返信は、予想外のものだった。「気にしないで!僕はただ、年賀状を出すのが好きなだけだから。返信は全然気にしなくていいよ!」
…気にしないで?
いやいや、気にしないわけにはいかないでしょう、と心の中で叫んだ。だって、それは結局、僕に「年賀状を出す」という負担を一方的に押し付けているのと同じことではないか。返信は気にしなくていい、というのは、タケダさんの免罪符に過ぎない。
タケダさんの年賀状は、僕にとって、まるで昭和の遺産のようなものだった。高度経済成長期に作られた、過剰な承認欲求と、相手への配慮の欠如が、そのまま形になったような、そんな感じがした。
カフェに立ち寄り、カフェラテを注文する。窓際の席に座り、再びスマートフォンを開いた。SNSのタイムラインには、相変わらずキラキラとした投稿が並んでいる。その中に、一件のDMが届いていた。タケダさんからだ。
「あけましておめでとう!今年もよろしくね!近いうちに飲みに行こう!」
添付されていたのは、タケダさんが旅行先で撮ったと思われる、満面の笑みを浮かべた写真だった。僕は、深いため息をついた。
タケダさんの年賀状は、僕にとって、ただの紙切れではない。それは、僕の「年賀状じまい」の意思を無視し、僕の時間を奪い、僕に罪悪感を抱かせる、厄介な存在なのだ。
でも、タケダさんだけが悪いのだろうか?もしかしたら、僕自身にも問題があるのかもしれない。僕は、タケダさんの「年賀状を出すのが好き」という気持ちを、本当に理解しようとしているのだろうか?
タケダさんは、きっと、誰かと繋がりたいのだ。誰かに自分の近況を知ってほしい、誰かに自分の存在を認めてほしい。年賀状は、タケダさんにとって、そのための手段の一つなのだ。
SNSが普及した現代において、年賀状は、時代遅れのコミュニケーションツールなのかもしれない。でも、年賀状には、SNSにはない、温かさや手作り感があるのも事実だ。
僕は、タケダさんの年賀状を、ただの迷惑な存在として切り捨てるのではなく、もう少しだけ、別の角度から見てみようと思った。
翌日、僕は、タケダさんに電話をかけた。
「タケダさん、あけましておめでとうございます。年賀状、ありがとうございます」
「おお!〇〇くん、電話ありがとう!年賀状、届いた?」
「はい、届きました。あの…実は、少しお話があって…」
僕は、自分の気持ちを正直に伝えた。年賀状じまいをした理由、年賀状を送られることへの負担、そして、タケダさんの気持ちを理解したいと思っていること。
タケダさんは、僕の話を静かに聞いていた。そして、最後に、こう言った。
「そうか…ごめんね、〇〇くん。僕、全然気づいてなかった。ただ、年賀状を出すのが楽しくて、〇〇くんにも喜んでもらえていると思ってたんだ」
タケダさんの声は、少し沈んでいた。
「でも、〇〇くんの話を聞いて、反省したよ。これからは、〇〇くんの気持ちを尊重する。年賀状は、もう送らないよ」
僕は、タケダさんの言葉に、安堵した。同時に、少しだけ、寂しさも感じた。
「ありがとうございます、タケダさん。でも、もしよかったら、今度、ご飯でも行きませんか?年賀状じゃなくて、直接、お話したいんです」
タケダさんは、少し間を置いて、こう答えた。
「うん、いいね!ぜひ行こう!」
電話を切った後、僕は、窓の外を眺めた。2026年の空は、澄み切っていて、どこまでも青く広がっていた。
タケダさんの年賀状は、僕に、コミュニケーションの本質を教えてくれた。それは、一方的な情報伝達ではなく、相手の気持ちを理解し、尊重すること。そして、時には、自分の気持ちを正直に伝えること。
SNSで簡単に繋がれる現代だからこそ、直接会って、顔を見て話すことの大切さを、改めて感じた。
僕は、スマートフォンを閉じ、深呼吸をした。そして、明日からの仕事に向けて、気持ちを新たにした。
年賀状という名の遺産は、僕に、大切な教訓を残してくれた。それは、過去の価値観に囚われず、新しい時代のコミュニケーションのあり方を模索すること。そして、何よりも、相手の気持ちを尊重すること。
2026年、新しい年が、僕にとって、より良い一年になることを願って。そして、タケダさんとの関係も、年賀状という形式にとらわれず、より深く、より豊かなものになることを願って。
カフェラテを飲み干し、僕は、オフィスへと向かった。足取りは、心なしか軽くなっていた。
2026年の冬、僕は、年賀状という名の遺産から、解放された。そして、新しいコミュニケーションの形を、見つけ始めた。それは、僕にとって、少しばかりの、そして、確かな成長だった。
※このエッセイは、Togetterのまとめから着想を得て創作されたフィクションです。
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