📝 この記事のポイント
- 2025年12月23日、都内の混雑した通勤電車に揺られていた。
- 窓ガラスに映る自分の顔は、いつもより心なしか疲れているように見えた。
- クリスマスイブイブという浮かれた響きが、どこか他人事のように耳をかすめる。
2025年12月23日、都内の混雑した通勤電車に揺られていた。窓ガラスに映る自分の顔は、いつもより心なしか疲れているように見えた。クリスマスイブイブという浮かれた響きが、どこか他人事のように耳をかすめる。今日が終われば、なんとか年内の業務も終わりが見えてくる。そんな期待と、終わらないタスクの山に押しつぶされそうな焦燥感が、混ざり合って胸の奥でざわめいていた。
向かいに立つ女性は、最新型のスマホを片手に熱心に画面を見つめている。おそらくSNSだろう。キラキラとしたカフェの画像や、美味しそうな料理の写真が、指先一つで次々と流れていく。彼女の表情は明るく、楽しそうだ。SNSは、情報収集のツールであると同時に、誰かの日常を覗き見ることができる窓でもある。そして、その窓から見える世界は、常に美しく加工されている。
ふと、数日前の出来事を思い出した。渋谷の駅近くにある、評判のドーナツ店に立ち寄った時のことだ。手土産にでも、と思い店内に入ったのだが、陳列されたドーナツを見た瞬間、軽い嫌悪感を覚えてしまったのだ。
ドーナツは、透明なアクリル板の上に、まるでオブジェのように無造作に並べられていた。蛍光灯の光を浴びて、カラフルなコーティングが艶めかしい。しかし、その光沢が、どこか人工的な、作り物めいた印象を与えている。
問題は、その陳列方法だった。ドーナツは、個別のトレーに乗せられているわけでもなく、むき出しのまま、透明なテーブルの上に直に置かれていたのだ。その光景が、なぜか無性に不快だった。
それは、まるで洗面所の隅に転がっている石鹸や、風呂場の床に放置されたシャンプーボトルのように見えた。清潔感がない、と言えばそれまでだが、もっと根源的な、生理的な嫌悪感に近いものだった。
もちろん、店側も衛生面には気を遣っているのだろう。アクリル板は毎日清掃されているだろうし、ドーナツ自体も厳重に管理されているはずだ。しかし、私の目には、その透明なテーブルが、菌の温床のように見えてしまったのだ。無機質な素材が、かえって不潔さを強調しているようにも思えた。
さらに、ドーナツを選ぶ客たちの姿も、私を不安にさせた。多くの人が、ドーナツをじっくりと吟味し、スマホで写真を撮ったり、友人とLINEで相談したりしている。その間、ドーナツはむき出しのまま、彼らの飛沫や埃に晒されているのだ。
結局、私は何も買わずに店を出た。ドーナツの味は美味しいと評判だったし、以前は私も手土産に利用していた。しかし、今回はどうしても、あの陳列方法が受け入れられなかった。
その夜、私はSNSで「ドーナツ 陳列」と検索してみた。すると、私と同じように感じている人が、少なからずいることがわかった。「おしゃれだけど、衛生的にどうなの?」「直置きはちょっと…」「見た目は良いけど、買う気にはなれない」といったコメントが、いくつか見つかった。
現代社会は、視覚的な情報に溢れている。SNSのタイムラインは、美しい写真や動画で埋め尽くされ、街を歩けば、巨大な広告が目に飛び込んでくる。私たちは、常に何かを見せられ、何かを消費するように促されている。
ドーナツ店の陳列も、その流れの一つだろう。SNS映えする美しいドーナツを、より魅力的に見せるために、あのようなディスプレイを採用したのかもしれない。しかし、その美しさは、どこか表面的で、うわべだけのように感じられた。
数日後、オフィス近くのカフェで、ランチをすることにした。いつものように、窓際の席に座り、カフェラテを注文した。店内は、クリスマスソングが流れ、暖かく心地よい雰囲気だ。
向かいの席に座った女性は、ノートパソコンを開き、何やら熱心に作業をしている。彼女のパソコンの画面には、プログラミングコードがずらりと並んでいる。集中しているのか、時折眉間に皺を寄せている。
私は、カフェラテを一口飲み、ぼんやりと窓の外を眺めた。街は、クリスマスのイルミネーションで彩られ、華やかだった。しかし、その光景も、どこか虚ろに感じられた。
ふと、私は自分が抱えている違和感の正体に気づいた。それは、美しさの基準が、あまりにも画一化されていることへの違和感だった。
SNSで拡散される美しい写真や、広告で作られた理想的なイメージは、私たちに「こうあるべきだ」というプレッシャーを与える。私たちは、常に「いいね!」の数を気にし、他人からの評価を意識しながら生きている。
ドーナツ店の陳列も、その一つだ。SNS映えする美しいドーナツは、「いいね!」を集めるためのツールとして消費されている。しかし、その美しさは、どこか空虚で、本質的な価値を失っているように感じられた。
カフェで作業をしている女性の姿を見て、私は少し救われたような気持ちになった。彼女は、誰かの評価を気にすることなく、自分のやりたいことに集中している。彼女の姿は、美しさの基準は一つではない、ということを教えてくれた。
その日の帰り道、私は、近所のパン屋に立ち寄った。その店は、昔ながらの佇まいで、店内には焼きたてのパンの香りが漂っていた。パンは、シンプルなトレーに並べられ、手書きのラベルが貼られている。
ドーナツ店のような華やかさはないが、パンの一つ一つに、職人の温かさが感じられた。私は、いくつかのパンを選び、レジに向かった。店員のおばさんは、笑顔で「いつもありがとうございます」と言ってくれた。
その時、私は、ドーナツ店で感じた嫌悪感の正体が、ようやくわかったような気がした。それは、美しさの裏に隠された、不誠実さへの嫌悪感だった。
ドーナツ店は、SNS映えする美しいドーナツを売ることで、多くの客を集めている。しかし、その美しさは、どこか表面的で、客を「いいね!」を稼ぐための道具として見ているように感じられた。
一方、パン屋のパンは、見た目は素朴だが、一つ一つに職人の愛情が込められている。客は、パンの味だけでなく、その温かさにも惹かれているのだ。
2025年12月23日の夜、私は、自分の部屋で、パン屋で買ったパンを食べていた。パンは、少し焦げ付いていたが、香ばしくて美味しかった。私は、パンを一口食べ、窓の外を眺めた。
街は、クリスマスのイルミネーションで彩られ、華やかだった。しかし、その光景も、以前より少し温かく感じられた。
SNSのタイムラインは、相変わらず美しい写真で埋め尽くされている。しかし、私は、それらの写真に、以前ほど惹かれなくなった。
私は、自分の心の中に、新しい基準を持つことができた。それは、表面的な美しさではなく、誠実さや温かさを大切にする、という基準だ。
透明なテーブルは、一見すると清潔で美しい。しかし、その透明さは、時に、隠された不誠実さを露わにする。私たちは、透明なテーブルの裏側にあるものを見抜き、本質的な価値を見出すことができるはずだ。
そして、2026年を迎えるにあたり、私は、自分自身の透明度を高めていきたいと思った。内面を磨き、誠実に生きることで、より輝きを増すことができるはずだ。それは、SNSの「いいね!」よりも、ずっと価値のあることなのだから。
※このエッセイは、Togetterのまとめから着想を得て創作されたフィクションです。
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